教科書では絶対教えない 日中戦争の真実 ⑤ 満州は中国の領土ではない | 潜伏中なブログ

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満州は中国の領土ではない

 つぎに、満州のことをみてみましょう。朝鮮半島の北隣、現在の中国人が「中国東北部」と呼ぶ地です。
 満州というのは、もともと中国に清朝をうち建てた満州族(女真族)の故郷です。清朝は満州族がつくった王朝であって、漢族は被支配民族だったのです。
 中国で「義和団の乱」(北清事変・一九〇〇年)が起きたとき、ロシアはそのどさくさにまぎれて、満州を不法に占領し、そこに居すわってしまいました。満州にロシアが居すわることは日本にとっても脅威でしたから、日本はロシアを追い出すために、日露戦争を戦います。
 日本は日露戦争に勝利し、満州からロシアを追放すると共に、満州を清朝に返してあげます。ジョンストン(満州国皇帝となった溥儀の家庭教師)の書いた『紫禁城の黄昏』には、日本が満州を清朝に取り返してくれたときのことが詳しく書かれています。
 日本はこのとき、満州における鉄道の権利と、遼東半島の租借権を獲得します。それは満州を取り返してくれたことに対する、清朝からのお礼の意味もありました。
 しかし、満州は当時、盗賊の跋扈する無法地帯であり、今日のイラクより治安の悪い所でした。そのため国際条約のもと、権益を守るために日本の「関東軍」がそこに駐留していました。今日でいう平和維持軍、守備軍です。
 この満州には、張作霖の一家が統治者として支配していました。関東軍は当初、この統治者と共同路線を歩もうとします。しかし張は、盗賊あがりの暴君で、満州の民衆にすさまじいばかりの搾取を行なっていました。盗賊がそのまま支配者となっていたのです。G・B・レーは、
 「張作霖一家が三千万民衆から搾取した収入は、南京政府の収入より多くなくとも之に匹敵するものであった
 と書いています。さらに張の親子は、条約を無視して満州の経済権益を日本から奪い取ろうとするなど、露骨な背信行為に出てきました。それを目の当たりにした関東軍は、軍事行動を起こし、張の軍隊を満州から駆逐します。
 これが満州事変です。これは日本軍の武力侵略の第一歩であると語られていますが、実際のところ当時、日本軍による張の軍隊の駆逐をみた満州全土の民衆は、大喝采を叫び、日本に感謝したのです。なぜなら張の軍閥政権は、
 「軍費を捻出するために広大肥沃な満州の土地を荒らし、民衆の膏血の七、八割は軍費に充てられ、商民の三割はついに破産した」
 と言われたほど、ひどい搾取を行なっていたからでした。
 当時の諸外国の反応も、日本の行動はやむを得なかったとしました。アメリカ公使、ジョン・V・A・マクワリーは、張の行動は中国国民党政府が仕掛けたものであり、これは彼らが『自ら招いた』災いだ述べました。アメリカの新聞記者、ウォルター・リップマンも、
 「日本は激しい挑発に直面しながら、通常の国際的基準からすればきわめて忍耐強かった」
 と記述しています。当時のイギリス陸軍の元師も、
 「彼ら(日本)はひどい挑発を受けてきた。……彼らが満州で地歩を固めれば、それは共産主義の侵略に対する真の防壁となる
 と述べました。
 さて、そののちこの満州の地に、日本の指導によって「満州国」がつくられました。満州国の皇帝となったのは、清朝のラスト・エンペラーだった溥儀です。
 清朝が滅亡したとき、日本の公使観に溥儀が逃げてきたのです。清朝というのは、満州人が中国を支配した王朝でした。ですから満州は、清朝を支配した皇帝の故郷です。溥儀は、自分の故郷の満州に帰り、そこに国をつくりたいと言いました。
 それで日本は、その希望を受け、満州に満州国を建国したのです。満州国では、皇帝が満州人であるだけでなく、大臣もひとり残らず満州人か清朝の遺臣でした。日本はその建国を指導したわけです。満州国はまだひとり立ちできる状態ではありませんでしたから、日本はその建国をバックアップしました。


満州国の首都・新京。
すばらしい国造りが進んだ。

 中国は、日本によるこの満州国建国も、「中国の領土への侵略だった」と非難します。しかし実際のところ、かつて満州の地が中国の領土だったことは一度もありません。なぜなら、満州は万里の長城の外側(関外)の地なのです。
 かつて清朝打倒の革命運動を主導した孫文のビジョンにも、満州は含まれていませんでした。孫文にとって、満州は中国ではなかったからです。蒋介石も、
「満州は中国の領土ではない」
 と公言していた時期があります。ところがその後、蒋介石の政府も、毛沢東の中国共産党も、満州の経済発展をみると一転して「満州は中国の領土だ」と言い出しました。しかし、まったく厚顔無恥と言わざるを得ません。満州が中国の領土である根拠など、どこにもないのです。
 人々の中には、
 「満州は清朝の皇帝の故郷だったのなら、やはり満州は中国の領土ではないのか」
 というかたもいるかもしれません。しかし、たとえば元の時代に、中国はモンゴルに支配されました。では、モンゴルは中国の領土かというと、そうではないでしょう。
 また、かつてインドネシアはオランダに支配されました。ではオランダは、インドネシアの領土かというと、そんなことは暴論ということになるでしょう。同様に、満州は清朝を支配した満州人の故郷ですが、中国の領土ではないのです。


奇跡の国・満州国

 清朝が滅びたとき、満州人の皇帝が満州に自分の国家を建てるのは、きわめて合理的なことでした。満州国は、わずか一三年間の王国でしたが、世界史上、奇跡の国でした。
 そこには建国以降、年間一〇〇万人を超える人々がなだれこみました。人々は中国内地の略奪、虐殺、貧窮に満ちた生活を捨て、この平和な桃源郷を目指して移住してきたのです。
 一九三二年の建国時に約三〇〇〇万人だった満州の人口は、終戦時の一九四五年には、四五〇〇万人以上にも増えていました。現在の日本の人口の約半分もの人々が、そこに暮らしていたのです。もし今日の中国人がいうように、当時の満州が略奪と虐殺の地獄だったなら、絶対にこのような現象はみられなかったはずです。
 満州国では「五族協和」をかかげていました。いろいろな民族の人々が、満州国の平和と繁栄にあこがれ、自分もそれにあやかりたいと競ってやって来ました。そして彼らにより、この何もない原始的だった地が、きわめて短期間のうちに近代的な法治国家、平和国家、一大重工業国家として成長したのです。しかし、
 「五族協和といっても、実際は日本が指導した国で、その中枢には日本人が大多数を占めていたではないか」
 という批判もあるでしょう。けれども、これは満州国がひとり立ちする時までは、やむを得ないことでした。なぜなら日本人以外は、字も読めない人々がほとんどであり、教育もなく、国家の理念すら理解しない人々だったからです。
 そうした中、日本がリーダー的な役割をすることが求められたのです。そして実際、満州国には、様々な民族が年間一〇〇万人以上なだれ込み、共に国造りに励んだのです。


満州国の新京・日本橋町。満州国は、周囲からみると別天地であり、
様々な民族が年間100万人以上なだれ込み、共に国造りに励んだ。

 かつて盗賊的な軍閥に支配され、搾取にあえいでいたこの地は、満州国の建国によって全く生まれ変わりました。治安がみごとに確立され、つぎには近代的な司法制度、法律が完備され、賄賂の悪習も追放されました。
 政府の財政も確立されました。貨幣の統一もわずか二年間で達成されました。満州の総面積は、現在の日本の領土の約三倍あります。日本人はその広大な国土に、鉄道、道路、港湾、空港のほか、上下水道、治山治水、電力供給など、様々な国土開発計画を実施しました。
 首都・新京は、じつに先進的な百万人都市として建設されました。路面はすべて舗装され、東京にもなかった下水道が敷かれ、水洗便所が使用されました。また、以前は鍋・釜しか製造できなかった満州は、やがて自動車や飛行機まで製造する一大産業国家に変身しました。
 日本はそこに学校を建て、教育を普及させるとともに、病院を建て、風土病、伝染病を駆逐していきました。もちろん、まだまだ改革しなければならないものは残っていましたし、戦時経済のひっ迫した状況もありました。
 しかし全体的にみれば、そこは搾取や略奪のない、生命・財産の保護される平和郷であり、周辺地域から比べれば非常に優れたアジア人の王道楽土となっていたのです。
 もし日本が敗戦することなく、満州国が存続していたら、満州国は間違いなく、その後のアジアにおいて巨大な発展を遂げ、アジアの平和と繁栄に寄与する重要な国家となっていたでしょう。まさにアジアのアメリカ合衆国となっていたに違いありません。
 しかし日本の敗戦後、満州国は中国の一部(東北部)とされました。そして日本がそこに残した遺産は、その後の中国の重工業の九〇%を支え、中国の経済的基礎となりました。戦後の中国は、この満州国の遺産で食いつないだのです。

http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/rekishi05.htm