教科書では絶対教えない 日中戦争の真実 ③ ローマ法王は日本の行動を支持した | 潜伏中なブログ

潜伏中なブログ

政治・経済・時事ネタを勝手につぶやく。

世界を知ること。明日の日本を考えること。

我 不惑なれど 未だ悟りを得ず。

Free Tibet 第十四世达赖喇嘛 Dalai Lama Tiananmen Massacre  天安門事件 日本国島根県竹島 Takeshima, 日本国沖縄県石垣尖閣 Senkaku

ローマ法王は日本の行動を支持した

 もともと、中国の内戦に巻き込まれたかたちで、中国内部に足を踏み入れた日本軍でした。しかし踏み入れた以上、日本は、そこが共産主義国家になってしまうのを防ぐため、多大な尽力をなしました。またそこに、欧米の侵略や搾取の餌食とならない自立した民主的国家が誕生するよう、手を差し伸べたのです。
 日本は中国を「自分の領土」とするために戦っていたのではありません。日本は中国の「領土保全」をかかげ、誰からも侵略されない、中国人による中国人のための安定した国家がそこに誕生することを目指したのです。そして日本と手をたずさえて、アジアを共産主義から守る防波堤になること、そこに一大経済圏が生まれることを目指しました。
 ですから、日中戦争(支那事変)が始まった年である一九三七年、一〇月に、当時のローマ法王、平和主義者として知られるピオ一一世(在位1922-39)は、この日本の行動に理解を示し、全世界のカトリック教徒に対して日本軍への協力を呼びかけました。法王は、
 「日本の行動は、侵略ではない。日本は中国(支那)を守ろうとしているのである。日本は共産主義を排除するために戦っている。共産主義が存在する限り、全世界のカトリック教会、信徒は、遠慮なく日本軍に協力せよ
 といった内容の声明を出しています。


ローマ法王ピオ11世。日本軍の行動を理解し、
全カトリック教徒に、日本軍への協力を呼びかけた

 この声明は当時の日本でも報道されました(「東京朝日新聞」夕刊、昭和一二年一〇月一六日および一七日)。新聞は、
 「これこそは、わが国の対支那政策の根本を諒解(りょうかい)するものであり、知己(ちき。事情をよく理解している人)の言葉として、百万の援兵にも比すべきである。英米諸国における認識不足の反日論を相殺して、なお余りあるというべきである」
 と歓迎の意を表しています。ローマ法王がこのように日本の行動に賛意を表してくれたことは、欧米の誤解や反日主義に悩まされてきた日本にとって、非常にうれしいことでした。
 けれども、そのピオ一一世も、やがて一九三九年には世を去ってしまいます。そのため欧米の反日主義や、日米戦争勃発を防ぐまでには至らなかったのです。


共栄圏をつくろうとした日本

 一九三七年から始まった日中戦争でしたが、日本はすでに一九四〇年には、すでに中国の華北と、華中の一部を支配下におき、その統治を親日政権である汪兆銘(おうちょうめい)の南京政府にゆだねていました。
 日中戦争は八年間続いたと一般にいわれますが、実際には日中の戦闘は一年半あまりで終結し、あとは日本軍はそれ以上領地を広げようとせず、占領地域でのインフラ建設や、経済建設に集中したのです。
 その支配地域では、経済、財政、物価、治安が安定し、民衆の生活は他と比べると天国と地獄ほどの差がありました。鉄道もつくられ、人々や物資の移動が容易になりました。よく「日本軍は一方的に略奪と破壊をした」かのように語られることがありますが、実際は全く逆だったのです。
 だからこそ、汪兆銘の南京政府や、そのもとにいる多くの中国人は日本を支持し、日本と共同して、その地域の発展のために働いたのでした。
 汪兆銘の南京政府が支配する地域では、戦前にも増して平和と繁栄を謳歌していました。その象徴が上海です。日中戦争中ですら、そのダンスホールや映画館はどこも満員という活況を呈していました。
 ロシアから逃げてきたユダヤ人たちの居住区も、この上海に設けられ、彼らはそこで安全に暮らしていました。
 一方、蒋介石や毛沢東が支配していた地域は、悲惨でした。ただでさえ彼らの軍隊が入ってきたので食糧が不足したばかりか、略奪、搾取が横行したため、たちまち住民は地獄の生活へと転落したのです。
 もっとも蒋介石は、日本人のような規律ある生活習慣を目指した「新生活運動」を実施し、中国兵の乱れた規律を正そうと努力はしましたが、それでもなかなか実を結ぶことはできませんでした。
 日中戦争中、アメリカがいわゆる「援蒋ルート」を通して、重慶にいる蒋介石軍に様々な物資を送り届けていたことは、よく知られています。兵器、弾薬、医薬品、食糧などですが、しかし山を越え、川を越えているうちに、重慶まで届いた物資は多くても当初の何分の一かに減っていました。
 それらの地域を支配する匪賊や、他の武装勢力に、通行料として一部物資を渡していたからです。当時、日本の支配地域以外の中国大陸には、匪賊が約二〇〇〇万人もいたといいます。それは中国軍の約一〇倍に相当します。彼らは略奪で生計をたてていたのです。
 また無事に重慶に届いた物資も、国民党幹部のポケットに入ってしまい、他の者には行き渡りませんでした。このように当時の蒋介石の政府が、米国の支援を食い物にしていたことは有名です。
 このように、日本の支配地域と、そうでない地域とでは中国民衆の生活に格段の差があったのです。日本はすでに日中戦争のさなかから、中国を近代的民主国家として自立させ、アジアの同胞として共に相携えて共栄圏をつくるために、非常な努力を積んでいたからです。
 しかしその望みも、やがて日本が日米戦争で敗戦を迎えたことにより、挫折しました。
 そのとき、日本は中国につくった工場や施設、インフラなどを破壊することなく、すべて正確な資産リストを添えて、中国の未来のためにそのまま置いてきました。それらは戦後の中国経済の発展の基礎となったものです。
 日本が去ったとき、中国では再び「国共内戦」、すなわち国民党軍と共産軍の内戦が勃発しました。これは実質的に、日本が残した遺産の奪い合いでした。そしてこの内戦での死者は、日中戦争中の死者よりも多かったのです。
 またこの国共内戦に共産軍が勝利し、中国を統一したとき、共産党はかつて自分たちがなした中国民衆への殺戮、略奪、搾取などを、すべて日本軍の悪行と宣伝して若者たちに教える教育を始めました。
 以前、私がこれら中国の歴史を「レムナント誌」に掲載したとき、ある日本人は「こんなことがあったなんて知りませんでした。一般に世間で言われていることと何と違うでしょう」と言いました。しかし、日本に留学しているある中国人クリスチャンが手紙をくれたのですが、こう書いていました。 
 「先生は中国に関し真実を書いています。がんばってください」
 中国人も、知っている人は知っているのです。


「中国無名戦士の墓」と書いた墓標の前で、慰霊祭
を行なう日本兵(1938年)。日本軍は戦闘が終わると
敵味方の区別なく、戦闘地にお墓を作ってきた。
中国の文化にはこのようなものはない。

http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/rekishi05.htm