少年時代に観た映画やテレビ、音楽 | Goodエンタメ好きのブログ 

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K-popをはじめ、J-pop、洋楽、ドラマ、映画、舞台と幅広く気の向くままに綴っていきます。

こどものころ観た映画やテレビ、音楽と記憶に残っている出来事を思い出してみることにしました。

今はネットで放送開始時期とかも調べられるので、曖昧な記憶でも結構つながります。

 

さて、初めて映画を見に行ったのが何の映画だったか皆さんは覚えていますか?多分連れていってくれたのは両親だと思いますが私の場合既に両親とも鬼籍に入っているので、聞くすべがなく自分の記憶だけが頼りです。何となく「ゴジラ」や「大魔神」だったような気もするのですが、テレビで観たような気もしていて自信はなく、間違いなく映画館で観たと確信がもてるのが「ガメラ対ギャオス」(1967年3月公開)を吉祥寺の映画館に行って観たことでした。

なぜ、覚えているかというと、そのとき、とても混雑している映画を通路に座ってみたあと、吉祥寺の駅前で、吉祥寺駅から自分たちの住む最寄り駅までの路線バスがあるのを偶然見つけていて、その数か月後に、何が原因か覚えていないけれど、国鉄(今はJRですが)が止まってしまい、父が吉祥寺駅で足止めをくっているという電話が入ったとき、その路線バスがあることを伝えて無事父が帰ってきたことがあって「よくバスがあるって知ってたな」と褒められたからなのです(笑)

 

 

「ウルトラQ」(1966年1月~)に始まるウルトラマンシリーズは小学校の頃のヒーローでした。「ウルトラマン」(1966年7月~)がゼットンに負けたときは大ショックを受けました(笑)

ウルトラマンの出ない「キャプテンウルトラ」(1967年4月~)というのをはさんで、「ウルトラセブン」(1967年10月~)に。

 

 

 

 

「ウルトラセブン」は結構哲学的というか、小学生には難しい場面が多かった印象があるのですが、セブンのスーツがかっこよかったですし、アンヌ隊員(ひし美ゆり子さん)が学校で人気がありました。ひし美さんは今もときどきイベントを開いて「ウルトラセブン」の制作秘話を教えてくれますよね。その後「帰ってきたウルトラマン」(1971年4月~)位までは見ていましたが「ウルトラマンA」(1972年4月~)「ウルトラマンタロウ」(1973年4月~)は殆ど見なかったです。

 

 

 

 

小学生の頃、数回母の田舎である広島に帰省したことがありました。いつも、寝台特急「あさかぜ」でした。当時はブルートレインとかの洒落た名前はついてなかったです(笑) いつもB寝台車で、3段ベッド。

乗るときはソファ席ですが、すぐに3段ベッドになって2段目のベッドに父と一緒に寝てました。狭かった(笑)。夜中に大阪駅にしばらく停まっていたのを覚えています。

 

 

周りをカーテンで仕切られてましたね。朝起きると洗面台が混むんですよね。

 

 

当時戦争ドラマが結構放送されていてなかでも

「コンバット」の軍曹ビック・モロー

「ジェリコ」のジョン・レイトンが好きでした。

 

ビックモローの寡黙ながらも頼もしい姿が好きでしたがのちに映画「トワイライトゾーン」の撮影中に事故で亡くなっています。

ジョン・レイトンは「霧の中のジョニー」のヒット曲を歌った歌手ですが、この時期俳優としても活躍しています。

 

 

 

1969年7月、アポロ11号が月に着陸し、アームストロング船長が月に降り立ったニュースをワクワクしながら見ていました。

多分このころ、我が家もカラーテレビになった気がします。先日コリンズ飛行士が亡くなり、船長とともに月面に降り立ったオルドリン飛行士は91歳でご存命です。

 

 

 

1970年は大阪万博で、3月から始まり9月に終わる博覧会でしたが、当初行く予定がなかったのに、父が夏休みに2泊3日で家族を大阪に連れて行ってくれました。初めて新幹線に乗ったなあ。吹田市の宿で、何時間も並んで人気のパビリオンを巡って、アポロ11号が持ち帰った「月の石」も観ました。このとき、今でいう携帯電話や動く歩道がありました。

 

 

 

 

当時購入したスタンプ帳

アメリカ館やソ連館が人気で2~3時間待ちの長蛇の列でした。スタンプ押して回りました(笑)。

 

 

当時はまさに「二十世紀少年」の時代で、小学校の裏山に秘密基地も作っていたなあ。

 

 

 

「ザ・モンキーズショー」

イギリスのビートルズに対抗して、アメリカで結成された「ザ・モンキーズ」ですが、テレビコメディドラマとして放送されていて

このあとも何度か再放送されていると思うのですが当時としては奇抜で面白かったです。

 

 

1971年「ルパン3世」テレビアニメ

 

今に続く「ルパン3世」のテレビアニメがこの年に始まった。それまでにはない、大人のアニメという感じでした。

初代ルパン3世の声は山田康夫さん。製作には、高畑勲さん、宮崎駿さんが参加していて今思えば豪華な製作陣だったようです。

 

 

 

1972年1月~

NHK少年ドラマシリーズ「タイムトラベラー」

NHKで1983年まで続いた「少年ドラマシリーズ」の第1作が筒井康隆「時をかける少女」を原作とする「タイムトラベラー」

のちに何度も映画化、ドラマ化される原作の初テレビドラマ化です。

当時はビデオテープが高価だったため、放送後にほかのドラマで上書きされてオリジナルテープはNHKにも現存しないそうですが、視聴者が録画した最終話の一部がDVD化されています。

 

 

 

 

1972年2月~ 青春ドラマ「飛び出せ!青春」 

青春ドラマは以前から放送されていて、竜雷太さんの「でっかい青春」とか記憶はあるのですが、一番印象に残っているのが村野武範さん主演の「飛び出せ!青春」でした。最後に「レッツ!ビギン」というのがカッコよかった。主題歌が青い三角定規「太陽がくれた季節」でいい曲でした。この年のレコード大賞新人賞を受賞しています。

 

 

 

 

中学生の頃に「風と共に去りぬ」をテレビで観て魅せられました。当時の私にはヴィヴィアン・リーが女神でした。この年劇場でも観ました。このカラー映画が戦前の1939年(昭和14年)に製作されているのを知って国力の大きさも感じ、その国と戦争したんだと。

 

 

また、とても切なくて記憶に残ったのがテレビで観た「シベールの日曜日」。今見るとやや危険なテーマだったと思うのですが当時はとても印象に残りました。

 

 

洋楽の楽しさの拡がり

 

中学校で英語の授業があるようになり、初めて英語の歌詞の意味がわかるようになって歌詞を追いかけたのがカーペンターズの「イエスタデイワンスモア」でした。

それから、堰を切ったようにビートルズ、カーリーサイモン、クイーン、エルトン・ジョン、スージー・クワトロ、シカゴ、イーグルス、KISS、ベイシティローラーズ、ボブ・ディラン、オリビア・ニュートンジョン、ABBA、DEEP PURPLEと広がっていきました。

こうして並べると洋楽のポップスからロックと結構幅広でした。クラッシックは難しく、ジャズにはなかなか慣れなかったです。

 

父親は公務員でしたが、大学英文科卒だったせいか、幼いころからラジオはいつもFEN(米軍向け極東放送)を掛けっぱなしだったので、常に洋楽ばかり流れていたことも影響したと思います。FENから流れる当時の洋楽ヒット曲を先に聞いていて後から曲名を知ることが多かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1973年に「燃えよドラゴン」が公開され、ブルース・リーが流行って、学校内でヌンチャクを持って真似をする少年があふれました。ただ、このブームの数年後にブルース・リーが亡くなったのも驚きでした。

 

1974年夏に「エクソシスト」が公開されることになり、友達と前売り券を買って暑い日の公開初日に新宿ピカデリーに並びに行きました。あまりの人気で人が殺到し、もみくちゃにされながら映画館に入ったので、入場券はもぎりもされなかったけれど、握りしめていたからクチャクチャになっていました。そのときに映画館入口のガラスドアが割れるほどだったので、ニュースや翌日の新聞に載っていました。

 

 

 

1974年10月 巨人のV10が消滅し、長嶋茂雄さんが引退表明。「巨人軍は永久に不滅です」というあの引退挨拶をテレビで観ていました。

 

 

中学・高校生のときはラジオの深夜放送をよく聞いていました。オールナイトニッポンの方が人気があったようですが、私は映画の吹き替えでよく知っていた声優の野沢那智さんと白石冬美さんがパーソナリティのTBSパックインミュージック「ナチチャコパック」が好きでした。野沢さんはアランドロンとかの吹き替えをしていました。

 

 

 

1975年3月に「ザッツエンターテイメント」というハリウッドのミュージカル映画を集大成した映画が公開され、その華やかさに魅了されました。古い映画に興味を持ったのはまさにこの映画がトリガーでした。

 

 

雑誌「ロードショー」や「スクリーン」を買って映画情報を集めて、スティーブ・マックィーンやポール・ニューマンの出演する映画(テレビ放送も含む)を中心に映画を観ていました。「荒野の七人」「大脱走」「ハスラー」「スティング」「パピヨン」「タワーリングインフェルノ」など、クリント・イーストウッド主演の「ダーティ・ハリー」シリーズも毎回観に行きました。中学生・高校生の間に相当数の映画を見たと思います。音楽も洋楽、映画も洋画ばかりみていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

中学生の頃は短波ラジオが流行り、短波放送の受信できるソニーのラジオを買って、外国からの日本語の短波放送を聞いていた時期もありました。BCLとか言ってたなあ。ラジオを聞いたと手紙を出すと「ベリカード」というのを送ってくれて、地球の反対側、「アンデスの声」(エクアドル)とか、VOA(ボイスオブアメリカ)とか、電波状況によってキャッチできない局も多かった。今やインターネットで簡単に世界とつながりますが、当時は世界とつながること自体珍しくワクワクしました。集めたベリカードどこに行ったのかな?

 

 

高校は、偏差値で輪切りされた連中が集まったので、ごく平均的。現役で大学入学できるレベルではなく、運動部や文化部も可もなく不可もない学校だった。私も当然のごとく浪人することになった。浪人で予備校に通った年は巷ではインベーダーゲームが大流行した年だった。遊びたい誘惑を振り切って勉強した思い出がある。キャンディーズが引退表明をしたのもこの年だった😢

 

 

 

 

大学はこれまた、受験勉強の燃え尽き症候群で、体育会に所属するわけでもなく、何かの勉強をするのでもなく、1年の夏にとった運転免許で家の車を乗り回し、塾の講師のアルバイト代がガソリン代に消える生活でした。車の持つ機動性で行動範囲が飛躍的に広がりました。都内や関東近県にドライブに行き、休みには上高地、乗鞍岳、飛騨高山、軽井沢等に、3年の夏休みは2台に分乗して仲間と北海道1周ドライブ。当時新宿駅北側の東西をつなぐ地下通路の壁際に旅行代理店が立ち並んでいてそこで旅行情報を集めてました。最近これらの店は閉鎖されましたね。

東北道を走り、仙台からフェリーに乗って苫小牧へ。宿は全部ユースホステル。札幌、旭川、糠平湖、帯広、釧路、根室、知床五湖、摩周湖、阿寒湖、網走、サロマ湖、稚内、礼文島、札幌に戻ってまた、苫小牧から竹芝にフェリーで戻る。2週間の旅行でした。楽しかった。

 

 

北海道を走ったのは、当時人気のファミリア1500XG。フェンダーミラーをドアミラーに、安いアルミホイールを履かせてました。赤が人気でしたがあえてブルーに

同じファミリアに乗るオーナーの集まりに参加し、箱根ターンパイクから大観山に向けて神奈川、東京、千葉から200台近くのファミリアが連なって走り、大観山駐車場に集まったときは壮観でした。車の雑誌社の記者が取材に来てましたね。懐かしい。

 

最後はエンタメに関係ない話で失礼しました。なんか思い出し始めたらいろんなことを思い出してしまって(笑)

まあ、大学卒業までコンサートには行ってないんですね。ライブの楽しさは、とにかく少女時代に出会うまで知らないのです(笑)