一般的な決断は誰でも出来ますね
先日ある方のブログで、山本五十六さんのことを書かれていましたが
そのかたも、私のことを引き合いに批判していますが、残念ですね
そこで、ふと思ったのが、決断という事を一般的な決断以上の枠から出たことがない方なのではと思うのですね。身内にも大勢います。
要するに、自分の知り得る範囲以外でしか考えようとしないのです。
そうなると、その枠を超えたことには、理解することが永久にできない残念なことになってしまいます。
成長を止めるので勿体無いですね。思考を止めなければいつか理解されるでしょう。
しかし、これらはよくあることなのです。
通常は、自分の殻を乗り越えない。乗り越える努力をしても
カラをひとつ破っただけで全てを乗り越えたと感じる方が圧倒的大多数です
決断というのは、結果に対して行うわけではない。
結果がわかっていて、決断するのは子供でもできます
しかもそれが、どれ選んでも意にそぐわない決断の場合は、大抵の方が誰かに擦り付けます
よく福祉のテーマで
1人を救うために、99人見殺しにするか
99人救うために1人を見殺しにするか
さらに、決断しないで100人見殺しにするか
実際こういう決断に遭遇する方がいますが、その結果に対し批判する方は、
おそらく、遭遇したら他人に決断を擦り付けます
で、そのあと決断した方を批判します
答えはありません。
決断という実行をしなければいけない責任のある立場の方は
逃れることができないのです
上記の例を、スピリチュアリストもどきの方は
どれを選んでも殺人者というでしょう
では、その方がその立場になったら?
より多くの方を救う可能性に全力を挙げるしかないでしょう
当然、99人救おうとして、半数以上がなくなることもあるでしょう。
未来はわからないのです
しかし、その中でできる最高の決断をすることが、責任者のあり方ではないでしょうか。
現場は、1人を救うこと
責任者は、切り捨てる覚悟の上大勢を救うこと
人間の限界はそんなものです
決断に対する結果の評論は、すべての背景状態を考えた上で
自分自身にフィードバックするためにある為のだと信じます