あくまでも私の身の周り、せいぜい半径5クリック以内の話なので、あまり一般化するわけにはいかないところもあるのですが、総じてGBFトライは前作のGBFに比べると、手放しで大絶賛する人の数は減り、一方で前作に比べていまいちだと評する人が目立っていたように思います。もちろんアンケートや統計を取ったわけではないので、単にGBFトライに不満を感じた人の「声が大きい」だけという可能性はあるでしょうが。
かく言う私自身がGBFトライをどう受け止めたのかと言うと、大枠ではGレコと合わせて半年間ずっと楽しんでいましたが、前作の最終回を見終わった時に感じたような「満ち足りた気分」は、GBFトライの最終回からはちょっと感じることが出来ませんでした。何故そうなのかを考えてみると、恐らくGBFでは半年間かけて語られる一連の物語が、最終回の時点できれいに“完結”しているからなのでしょう。
もちろんGBFトライだって、話が明らかに途中でぶつ切りになって「続きは劇場版で」と告げられるどこぞの世界の破壊者のようには別になっておらず、ストーリーの主軸となっている一つのガンプラバトル大会は決勝の終わりまできちんと描かれています。
ただGBFのほうは、物語世界全体の枠組みとしてのガンプラバトルが、最終回の時点ではプラフスキー粒子の結晶体「アリスタ」の消滅と共に、一旦は終焉を迎えています。それは同時に、ガンプラバトル事業を独占的に仕切って物語世界の屋台骨を支えてきたPPSE社の事実上の終焉であり、もっと重要なことには、主人公の少年が不思議な友人と出会い共に過ごして成長した、束の間のかけがえのない季節の終焉でもあるのです。GBFの主人公イオリ・セイの人生はもちろんその後も続き、ガンプラバトル自体も代替プラフスキー粒子の発見と実用化によって再開することとなりますが、こうした「その後」はすべて最終回エンディング映像の中で描かれていることであり、GBF本編から見ればあくまでも「後日談」であるという構成になっています。映画『スタンド・バイ・ミー』のように、セイとレイジの二人はガンプラバトルという特殊な経験の場でひと夏を共に駆け抜け、二人の別れと共にかけがえのない夏は終わるのです。
やがて夏はまた巡ってきて、ガンプラバトル大会もまた開催され、セイ自身も再びそれに参戦することになるため、表面上の事象だけを要素命題単位で切り出して箇条書きに並列したら、セイの夏はこの先何度でも同じ出来事が繰り返されるように解釈できなくもありません。でも、レイジという一過性の存在が共にいることにより、GBFで描かれた日々はセイにとってただ一度きり訪れ、二度と繰り返されることのない大切な時間だったのだということが、ベタな台詞で語らずとも視聴者には伝わるようになっています。
GBFとGBFトライをそれぞれ見終わった時に私が感じた余韻の違いの、最大の要因が恐らくここにあったように思います。GBFトライも別に主人公たちが歳を取らないサザエさんシステムを取り入れているわけではないので、順当に考えれば最終回ラスト(次回大会)のトライファイターズは、その直前までの3人よりも一つ歳を取って学年も一つ上がっているはずです。また中高生大会という年齢的レギュレーションは、この3人や彼等と戦ったライバル達もいずれはこの「場」から必然的に消えていくことを暗示しています。ただ、こうした「やがて来る別離」が、GBFトライでは前述のような設定上の枠組みとしてのみ提示され、当人達のドラマはあくまでも「俺達は常にチャレンジャー」、つまり際限なく上り続けていくモチベーションだけが強調されています。
これはどちらが良い悪いではなく、単に見せようとしているドラマの方向性が違うというだけのことなので、あとは見た人の好みによって判断すればいいことだと思いますが、とりあえず私には前作のガンプラ版「スタンド・バイ・ミー」のほうが、より深く心に刻まれたというだけのことです。
かく言う私自身がGBFトライをどう受け止めたのかと言うと、大枠ではGレコと合わせて半年間ずっと楽しんでいましたが、前作の最終回を見終わった時に感じたような「満ち足りた気分」は、GBFトライの最終回からはちょっと感じることが出来ませんでした。何故そうなのかを考えてみると、恐らくGBFでは半年間かけて語られる一連の物語が、最終回の時点できれいに“完結”しているからなのでしょう。
もちろんGBFトライだって、話が明らかに途中でぶつ切りになって「続きは劇場版で」と告げられるどこぞの世界の破壊者のようには別になっておらず、ストーリーの主軸となっている一つのガンプラバトル大会は決勝の終わりまできちんと描かれています。
ただGBFのほうは、物語世界全体の枠組みとしてのガンプラバトルが、最終回の時点ではプラフスキー粒子の結晶体「アリスタ」の消滅と共に、一旦は終焉を迎えています。それは同時に、ガンプラバトル事業を独占的に仕切って物語世界の屋台骨を支えてきたPPSE社の事実上の終焉であり、もっと重要なことには、主人公の少年が不思議な友人と出会い共に過ごして成長した、束の間のかけがえのない季節の終焉でもあるのです。GBFの主人公イオリ・セイの人生はもちろんその後も続き、ガンプラバトル自体も代替プラフスキー粒子の発見と実用化によって再開することとなりますが、こうした「その後」はすべて最終回エンディング映像の中で描かれていることであり、GBF本編から見ればあくまでも「後日談」であるという構成になっています。映画『スタンド・バイ・ミー』のように、セイとレイジの二人はガンプラバトルという特殊な経験の場でひと夏を共に駆け抜け、二人の別れと共にかけがえのない夏は終わるのです。
やがて夏はまた巡ってきて、ガンプラバトル大会もまた開催され、セイ自身も再びそれに参戦することになるため、表面上の事象だけを要素命題単位で切り出して箇条書きに並列したら、セイの夏はこの先何度でも同じ出来事が繰り返されるように解釈できなくもありません。でも、レイジという一過性の存在が共にいることにより、GBFで描かれた日々はセイにとってただ一度きり訪れ、二度と繰り返されることのない大切な時間だったのだということが、ベタな台詞で語らずとも視聴者には伝わるようになっています。
GBFとGBFトライをそれぞれ見終わった時に私が感じた余韻の違いの、最大の要因が恐らくここにあったように思います。GBFトライも別に主人公たちが歳を取らないサザエさんシステムを取り入れているわけではないので、順当に考えれば最終回ラスト(次回大会)のトライファイターズは、その直前までの3人よりも一つ歳を取って学年も一つ上がっているはずです。また中高生大会という年齢的レギュレーションは、この3人や彼等と戦ったライバル達もいずれはこの「場」から必然的に消えていくことを暗示しています。ただ、こうした「やがて来る別離」が、GBFトライでは前述のような設定上の枠組みとしてのみ提示され、当人達のドラマはあくまでも「俺達は常にチャレンジャー」、つまり際限なく上り続けていくモチベーションだけが強調されています。
これはどちらが良い悪いではなく、単に見せようとしているドラマの方向性が違うというだけのことなので、あとは見た人の好みによって判断すればいいことだと思いますが、とりあえず私には前作のガンプラ版「スタンド・バイ・ミー」のほうが、より深く心に刻まれたというだけのことです。