毛玉取りは好きな作業。
今日はウールの膝掛けのつぶつぶ毛玉を取りました。
私にとって
毛玉は不要なもの
けれど
夫にとっては
要不要を考えるものですらなく
あって当たり前のもの。
昔々、夫のカシミヤセーターの
毛玉を取ろうとして声をかけると
「いらない」と。
理由は「薄くなるから」と。
ハァ?・・・薄くなる?
それを聞いて
(そんなこと考えたこともなかったわ)
(ちょっと意味わからない)
(こんな毛玉むくむくで手触り悪いじゃん)と
心のなかで悪態をついて納得いってなかったのですが
いまならば
人それぞれ考え方が違うんだから
そりゃ仕方ないよねと軽く受け容れることができる。
それぞれ違って仕方ないって
諦めの言葉のようだけれど
そうではない。
だって、本当に違うんだもの。
たとえどれだけ趣味嗜好が似ていたとしても
自分とまったく同じ人なんていない。
消極的な仕方ない、ではなく
積極的な仕方ない、なのです。
良いも悪いもない
なにもかも
「それ」に対する思い=価値観が違うだけ。
毛玉ができた洋服は
私には
→手触りがよくない
→洋服が古びて見える
→手入れを怠っている自分がいや
→着ていて浮かない気分になる
→きちんとしていない
→きちんとしていたい
(きちんと見られたい気持ちもある)
→毛玉を取るのが好き
→取るとすっきり気持ちよく着られる
けれど夫には
毛玉がだらしなく見えるとか
きちんとしていないという価値観がない。
人はそれで判断されるものでもないと思っている。
私の考え方も、夫の考え方にも
良い悪いはなくて
ただ、違うだけ。
そもそも
私のその価値観はどこから生まれた?
そんなことも掘り下げてみると
幼少期の環境などの影響が見えて
「それぞれ何もかも違って当たり前」が浮き彫りになってくる。
毛玉の話がだんだんふくらんできましたな
なんであれ
自分の価値観と正義をふりかざして
相手との違いでムキになる必要もない。
「ああ、違うんだな」
まずこれを認める。
そのうえで
自分が納得いかなかったり
関係性に不都合が生じるのであれば
どうするかを考える。
結局、お互いの意思を擦り合わせて
最近は夫の洋服の毛玉も最低限取っています。
薄くならないようにさらーっとね。