なぜか、きちんとした人に見られます。
「なんでもできそう」
「ていねいなくらしをしていそう」
「体にいい料理をきちんを作ってそう」
うんぬん。
この印象、結構辛いもの。
全部「~そう」なだけで、実際は
なんでもできるほど器用ではなくむしろ母から不器用と言われて育ちその言葉の呪縛から抜け出せないし、
ズボラ万歳、そうじも好きじゃないし、
食材は多少気を使うけど基本食べたいものを好きなように、料理の神様が降りてきた時だけはりきって作る
こんな感じ。
でも、これらの印象は知らず知らずのうちに自分で作っているのですね。
なんでもできるようになりたいし、美味しくて体にいい食事を作りたいし、ていねいなくらしをしたい。
そう思っていますもん。
ズボラなところは見せなくてもいいと思っていて、特に私を直接知らない方たちに見ていただくブログのような場所では、写真はできるだけきれいに、文章を書くには言葉を選びます。
・・・これは見栄か気配りか。
「ズボラな完璧主義」の私。
ズボラの気持ちとしては、
本当はなんだってめんどくさい。
好きなことだけやっていたい。
いつまでも寝ていたいし、
ごはんだって手抜きしたい。
完璧主義の私としては、
素敵な部屋で暮らしたい。
早寝早起き健康な生活。
体にいい美味しいものを家族に食べさせたいし、自分も食べたい。
「いいこでいなくちゃ」
子供の頃からそう思ってきたのです。
そんな体質がすっかり身についています。
自分がやりたいこととできること、やろうとしてもできないこと、そんなギャップにずっと悶々としてきました。
以前書いたように40代に入ってから楽になってきています。
後でがっかりされるのがいやで「なんでもできる自分」を装ってきたけれど、そうじゃなくていいんだと思えるようになってきました。
そう思っていたところにライフオーガナイズに出会え、これでいいんだと自分を認め、素直に暮らそうと思っている次第。
シンプルに
自分に心地よく。
人の目は関係なく
かといって傍若無人にならず。
どう見られたって自分は自分。
なんでもできようと、できまいと。
悩んできたことも自分の糧。
今の自分はそんな毎日の積み重ねの結果。
見かけだおしでもいいじゃないか。
たとえば階段の写真を撮る時

できるだけ2階に上がる回数を少なくしたいから
持っていくのに溜めてあるものを

見えない場所に置いてから撮る

コーヒーメーカーを撮るなら

近寄れば余計なものが映らない。
そんな小さな見栄(き、気配り!! )は張っちゃうな。これからも。