今でも忘れられない怒りの一つ。


父が脳梗塞で倒れた時。

母は自分の不安感から、

毎日病院にいっては付きっきり。



他患でそんな人はいませんでした。



結局はずっと一緒に居るのも、

疲れていき、言い合いになり、

変な喧嘩になって、

母は父が狂った人に

なったように一方的に父のことで

病院に訴えかけてしまてしまい、

状態が良くないのか?という

疑いをかけられているという事態を知り、

病院で状況は伝えました。


その行為を母親からは

恨まれる始末。



その事件がキッカケで

私は家を出ることまで周りに推奨され、

実家を離れました。


その頃、父を案じてお見舞いへいけば、

母親がベッタリとくっついていて、

二人で話すことを許されなかったので、

お見舞いへいくことも止めて、

自分が家を出る支度に集中しました。


内覧3件目できめ、

出るまでに1ヶ月半でした。



その事件より前に起こった怒りとは。


そうやって病院へ

毎日いっているのは知ってたけど、

ある日に帰宅すると、

うなだれていて「ご飯つくってない」と。


は?と。


当時の職場は勤務時間内の

スマホ通話を禁止されていて、

残業時間なども夕方にならないと決まらない。


でもショートメールなどで

連絡をとることもありました。


作らないならそれなりに、

メール一本くれたらお弁当かって帰るとか

何とでもできるのです。

その時はあるもので適当に作れば、

「あら、案外おいしいね」とか抜かされて、

は?って感じでした。


連絡しろよ、

そんな疲れるまでそばにいて、

仕事して帰ってくる私に、

無茶振りするなよ、

そんな怒りを抑えてました。

いや、ちょっとは言ってましたね、

「なんで連絡しないのか」と。

態度はしっかり出てはいました。

呆れた落胆です。



きっと一番許せなかったのは

「甘えてくるなよ」だったと思います。


自分が甘えられていない相手に、

無理矢理に甘えられる状況を作り、

その役割を担いたくなかった怒り。


気持ち悪い、と。



遅いタイミングまで実家暮らし

していましたし、

それは私がある意味で

親に依存していたとはいえる。


でも情緒的に交わっていない相手から、

ここぞとばかり恩を返すように

仕向けられたら気持ち悪い、と、

そう思ったのだと思います。


親に感謝の気持ちとか

全く持てていない。


今までやってもらったから、

やってあげたいなんて思えない。

自分が欠落してるのかもしれないが、

ただそこに居ただけの人間としては、

家族という感覚を、家族に持てていなかった。


そしてそれは今でも同じ。

父とは母の犠牲者として哀れんで

電話で会話こそ出来ているけど、

こちらもコミュニケーション不足によって、

父という感覚はない。



私は誰とも家族になれなかった。