ひと昔前にポテサラ論争というのがあった。


私はポテサラどころか、

調理をヘルパーさんに頼んでいるので、

それ以前の問題なのだが…


まず自分がポテサラを作るか?について、

私はほぼ作らない理由として


①面倒くさい

②そんなに好きじゃない


そんなに好きじゃないけど、

卵を多めにしたそれを無性に食べたくて、

作ったことはある。

ポテトはそんなに潰すのではなく、

ややコロコロでいいとかそんな感じのもの。


その論争自体は詳しくないが、

ポテサラを買おうとしていた主婦が、

ご年配の人からそれくらい作ったらいいのに、

そんなことを言われた話だったと思う。


単純に老害の域であるし、

そのご老人もそんな場所で

誰かに文句言わなきゃいけないほどに

何かこじらせてる感じは解る。


しかしそれを言われた方も、

「あなたは作るタイプなんですね」

くらいの気持ちで聞き流せずに、

ネットで愚痴らなくてはならないほどに、

何かをこじらせてるところもあるのかな。


今の時代、女性も忙しいけど、

家庭を作って維持することについては、

女性がフルタイム復帰でキャリアを

捨てられなかったとして、

なぜか男性の協力もまだそこまで手厚さを

感じられない。


短時間勤務などなぜか女性が犠牲になるか、

そこを捨てられずして、

仕事も家庭も全てやりこなすのか。



いずれにしても犠牲になるのは

やはり子どもなのではないのか?

(ポテサラ論争の方に子どもの有無はわかりませんが)


家庭もキャリアも捨てられない、

それはどこかで貪欲すぎやしないか?


その時に多少なりとも、

祖父母とかそれ以外でもいいので

家族という大きな枠組みでそのフォローが

あるならまだ話は別だけど、

そうでもないままに

「衣食住さえ与えて教育うけておけば

 子どもは大丈夫」

そんな価値観が世の中にはびこってはいないのか?


中学生くらいになれば、

それくらいの手放し感覚でもいいのだけど、

小学生くらいまでは、

母親または母親でなくても養育者の誰かが

「ポテサラ作れるくらいのゆとり」ある人が

子どもの側にいて心を守ってほしいものだと

そんなことは思ったりした。



私の場合は母親は働いていなかったんだけど

それでも情緒的な関わりがなかったので、

まだ児童養護施設に預けられた方が

精神的な部分でまともだったのでは?

そう思っていたが、

そこで育った人の不安定さを垣間見た時、

脆弱な基質には比較的に守りが必要なのかな。


守りが必要というより、

自分の気持ちを言えるような相手が必要だと思った。