image
 
 

ブログを久しぶりに書きます。

 

 

そらさんのこのブログの記事を読んで

思い出したことがあるんです。


 

私もそらさんの[本質的な叡智のバトン]に参加しはじめた最初のころの

大きな問題の一つは、幼少期の記憶がないことでした。

(そんなことも忘れていましたが。笑)

 

 

 

 

私の記憶は、幼少期だけではなくて、小さなころから大人になったその頃までの

多くの記憶が抜け落ちています。

 

 

お母さんと昔を懐かしむ会話が話題にあがったときには

楽しかった記憶は全く思い出せない。

いつも、思い出そうとすると

雲がかかったようなモヤのなかを、手探りで記憶を探そうとする感じ。

 

 

なにもつかめない。

なんにも見つからない。

 

 

思い出せるわずかな記憶のかけらは、重度のアルコール依存症で亡くなった

お父さんを介護してきたつらい記憶。

 

それだけじゃないはずなのに、そのことだけは思い出せる。

 

 

 

働けなかったお父さんだったから、収入はお母さんが毎日くれるお小遣い程度しかなくて

弟と貧しい暮らしをしてきたこと。


 

いつもお金がなかったから、育ちざかりのちいさな弟に、ご飯をたくさん盛ってあげたこと。


 

わずかな記憶をピックアップできたとしても、つらくて哀しい思い出ばかりでした。

 

 

お母さんは、私が思い出せるように

家族で行った場所や、きっかけになりそうなことを話してはくれるけど・・・

お母さんの期待に応えようとしても、なんにも思いだせない。

 


お母さんが悲しそうな顔をするたびに、私の中で思いだせないことが

どんどん問題になっていった。


 

そんなやりとりから、お母さんの中では

感情が薄い子という印象だったようです。

 

 

 

感情を表現できない子は、なにか心に問題を抱えている。

 

感情を表さない人は、相手にどう思われているのかを気にしている人だ。

 

記憶がないのは、嫌なことを封印しなければいけなかったんだ。

 

インナーチャイルドが癒されていないまま大人になったんだ。

 

家族の愛情が薄かったから、愛を受け取れなくて感情の表現が表せないんだ。
 
 
色々に言われるけど、

 

お母さんは私に、めいっぱいの愛情を与えてくれていたので、その考え方にはあてはまらなかった。

 


だけど、さまざまな考えかたを聞くたびに、私は問題探しをするしかなかった。

 

お母さんとの思い出を忘れてしまっているのは事実だから。

 

 

 

それだけじゃなくて、

問題だとして生きていなかったのに、社会の中であたり前だとされている考え方に

私のことをあてはめると

次から次へとわいて出てくる自分への問題。


 

なんだか、否定しては向き合って、否定しては向き合って、しているうちに、根深い否定へと進んでいきました。

 

 

 

ヨガの学びをしてきた私だったから、ダライ ラマのしあわせになるための講演会に行ったり、インドから来た聖者の説く考えかたを聞きに行ったり。

 

穏やかさを手にいれるためのヨガや瞑想や、ボディワークもたくさん参加してきました。

 

 

確かに。その考えかたを実践したら、結果的に一時的な高揚感や視点が変わるような変化は感じられました。


 

だけど結局、問題視している自分を肯定してあげただけで、問題ある自分はそのままだから

また振り出しに戻ってしまう。


結局。時間とお金を使っただけで、なにも変わらなかったことを思い出します。


 

あのまま考えかたを私にあてはめて、今も生きていたのなら

私の根深かった否定も自分への嫌悪感も、一生消えることはなかったと思う。

 


まちがいなく私は、今 現在も問題を次々と見つけだして解決しては

新たな問題を探して、自分を訂正することに時間を費やして生きていただろうから。

 

 

 

 

現実を今生きているのに、

過去に起きた否定的に感じている記憶の処理をしないと

しあわせになれないなんて


 

なぜ。また次の問題に向きあわそうとするのだろう。


 

なぜ。問題に向きあわさせて、否定をまた作らせてしまうのだろう。

 

 
私が、記憶がなかった理由。
 
それは、お父さんに笑って欲しかったからでした。
 
私の本質的に、お父さんを放っておけなくて
でもお父さんは、私なんかの手におえる状態ではなくて
それを見ているのが辛くて辛くて、お父さんのことばかりが記憶に残っていたのでした。
 



バトンでは、問題に向き合いません。
 
問題も探しません。
 
本当の自分を感じられるようになります。

 
本当の自分に戻ったら、なぜ記憶がないか、なぜ感情がお母さんには薄かったのか
そのほかのたくさんのことが、腑に落ちます。
 

そして、それはすべて自分らしいことだということを知りますから
 
過去の問題など消えて、今を生きていけます。

 

 

 

 

私はどうしても、過去の私のような

見失ってしまっている人をほっておけません。

 

みんながしあわせになりたくて、問題に向きあって悩んで葛藤しているという矛盾を

見ていられません。

 

みんな真面目に真剣に向き合っているのに。

 

ほんとうは、みんなが誰のサポートも借りずに、自分の人生を生きられるはずなのに。

 

 

 

バトンの場は

感情を解放するワークでもない。

人間関係のコミニュケーションを学ぶ場でもない。

問題を解決しようとするセラピーやカウンセリングでもない。

 

そらさんは、過去の記憶が思い出せない解決法も言わない。


 

愛とはこういうものだとか。

感謝とはこういうものだとか。

命とはこういうものだとか。

答えを言われることはない。


 

その人に語りかけているようで、実はその場にいる全員の意識の偏りを一気に外しています。

 

そして、自分自身のことを自分で感じられるようにしてくれます。

 

 

私は、なににも問題に向きあわなかった。

 

バトンの場で最初は、次から次へと自分の問題を話していたけど、

問題自体はスルーされていました。

 

 

そらさんの話は最初は、難しく感じるかもしれないけど
みんなが当たり前に信じてしまっていることを、笑い飛ばされて

ひとつ、ひとつ、確認していけば、

ほんとうにそんなものはあるはずがないとしか思えないあたり前のことだった。

 


問題を解決したくて参加していたのに、問題だと思ってきたものが

いつのまにか消えてしまう。


 

あれ??

一体私はなにを悩んでいたのだろう?


 

バトンの場に参加すると、短時間でそんな風に意識が変わる。

そんな変化がみんなに何度も訪れる。


 

意識が変わると書くと、特別な修行をしているかのようにとらえてしまいそうだけど、全く違う。

 

ここに参加している人たちは

何の修行もしていない勉強もしていない主婦だったり、社会のなかで普通に働いている

どこにでもいる人たちだから。

 

 

そらさんは、何度も見失っていた私を照らし続けてくれました。

その照らし続けてくれた先に、私がわたしらしく反応していったら

影響なんて全く受けていなかった

ほんとうの私がいた。

 


 

私は、バトンと言う場に出会い

ほんとうによかったと思う。

 

私は、生まれてきてよかったと

ほんとうに。そう思う。

 

 

 

相手の人生のしあわせを願って笑いながら泣いてしまったり。

 

お庭のつぼみがついた花が、もうすぐ咲く姿を今かいまかと待ちわびているだけで

「花がもうすぐ咲きそうだよ^^」って

目の前の人と笑いあって、心から歓びを感じている。

 

そんな感情豊かな自分をいつも感じている。

 

 

過去の記憶は、今も変わらずに思い出せることはカケラほどだけど

そんなことどうだっていい。

 

今、幸せになればいいんだから。

 

 

 

 

 

過去が。トラウマが。親の影響を受けているから

 

どう考えても、この先の人生も、問題ばかりで、しあわせだと思えそうにない。

 

不幸じゃないけれど、しあわせ?と聞かれたらわからない。

毎日をただなんとなくやり過ごすことが人生なのだろうか・・・

 

 

気がついていなくても

たくさんの方々が、しあわせになりたくて

問題を必死になって解決して先に進もうとしている。

多くの方がそう言った苦しみを抱えていることを私は、知っています。

 

 

だからこそ。問題ばかり解決しようとしてきた過去の私のような人に伝え続けたい。

 


誰かお一人でも必要な方の目に触れることを願って。

過去の私のような方へ、書いてみました。

 

 




 

あなたの人生は何かのツールや、考え方と言う知識で変わるものじゃない。

 

あなたが、あなたの人生をあきらめさえしなければ

自分の力で選択しながら、影響を受けることなく人生を生きられる。

 

 

私は、ほんとうのあなたと

バトンの場で笑いあっていたいから。

あなたと一緒に。

 

 

 

 

 

べつい ちあき


 

 

 

 

▶︎本質的な叡智のバトン 全国ツアースケジュール