*はじめに…辛い現実を生きなければならない人のことを綴っています。

そういうお話を読みたくない方は、読み進めないでくださいね






私にとって印象深かった過去のブログを書き直しました。
想いを消してしまった方へ
どうか届きますように。





長年勤めたお仕事を辞めて、ヨガに興味を持ちインドで学びを深めた経験があります。
 

 
インドでは手足のない不自由な物乞いをしている子供や
体が変形した大人がたくさんいました。
あり得ないほどの数…。
 

そのあり得ない数の物乞いをしているストリートチルドレンの中に1人
私が気になった女の子がいました。

その子は両手がなく、視力さえうっすらと見えるほどの状態でした。
 

私はアシュラムとゆう日本で例えるなら、お寺の宿坊のような場所に滞在していたのですが、
レッスンの空き時間があれば
女の子のいる場所へ毎日訪れては小銭を渡していました。

『なぜ。こんなにもストリートチルドレンがあふれているのだろう。』
そう不思議に感じて、気になったのでネットで調べてみました。


そこで見つけたものは
マフィアが幼い頃に、物乞いの人生を歩ませるために
強制的にそういう哀れな体にしているということでした。

(この話がほんとうかどうかはわかりません。
ここで議論しあう事ではないのでご理解くださいね。
事実としてたくさんの子供たちがそういう状態でした。)



毎日私は彼女の所へ行っては
「このお金で、収入がないからと組織から殴られることがありませんように」と小銭をあげていました。


あの時。
たくさんいたストリートチルドレンの中で、私が反応した彼女。


日本に帰ってきてからも、私の記憶の中に残っている彼女。
(もちろんたくさんの子供たちと一緒に心に残っています。)

ほとんど視力が残っていなかったけど逢いに行けば、
ほっとしていたような…安心したように感じた彼女の笑顔。


彼女はまだあの場所で、物乞いをしていて辛い現実を生きているのだろうか。

殴られているのだろうか。

どうか。
ほんの少しの瞬間であっても、ほっとするようなわずかな安堵の時が彼女の元に訪れますように。


そんな彼女へ向ける祈りのようなフィーリングは、いまだに消えることなく
私の中に灯されています。




インドから帰国した頃の私は、自分が何もできなかった無力感からか
毎日お金を渡して「良い行いをした。」と満足しようとしていたのではないか…と
自分を醜く感じていました。
偽善者の意味をわからずに、偽善者なのではないかと
否定の気持ちが日に日に強くなっていました。



彼女に向けられた祈りのような
私の一方通行の想いを

お金をあげても無意味だ…マフィアにお金をあげていただけで
彼女は救うことが出来ないと
その時感じたその想いを
私の自己満足のエゴだとしていました。



彼女を助けたい。
だけど自分の力ではどうにもならない彼女の厳しい現実。

その現実を生きなければならない彼女に感じた深い哀しみの感情にも、
感じなくしようとしてフタをしはじめていました。


そんなタイミングで私は、本質的な叡智のバトンに参加しました。


その話をした瞬間に、私にそらさんはこう言いました。





「結果がでない。だからそれは偽物だ。
そう、結果がでないことに意識があること自体が
エゴだ。」






あの時。
彼女に向けた私の想いにもフタをして、
お金をあげることへの結果に意味をつけて、行為の良し悪しを見ていたということ。



結局、善とか偽善とか
その意味もわからずに、結果が出るか出ないかで
偽善と言っていたことに気がつかせられました。


その出来事は、
私の人生に必要で、私の想いに触れるために訪れていた出来事だったけど

当時の私は行為と結果の良し悪しに囚われていて
道行く人たちが誰も振り向かない
彼女に向けられた
私らしい想いを感じることもなく、
無力な自分を責める方向へと向かってしまっていました。

 

その出来事が、今の私らしさに気がつく為に訪れた出来事なんて思いもしないで。




相手を救えないから、関わることをやめる。

世の中は、そんなことばかりのように思います。


でも、責めているわけじゃなくて
自分もそうだったように、結果のために頑張って
結果がでたら喜んで、そんなことばかりだな…て思うんです。


私もそうだったし、みんなも見失っている。



みんな簡単に、相手へ向けた想いを消しています。
そして自分を優先したら良いことがあると思っています。



みんなの中に相手がいない状態。


インドから帰ってきた頃の私のように・・・。
 
 


彼女に ほんとうに必要だったことは
お金を渡すことでもなかったかも?しれませんが
その時の私にはそれしかできませんでした。

ただそれだけ。


今、他の人に関わる時もただそれだけ。

でも、
もし私に… 渡してあげるお金がなかったら…

そっと手を添えるだけでよかったのかな…

それだけで彼女は安心してくれるのかな…

今も問いかけ続けています。

心の隅っこで。

答えなんてないから。



 

相手には相手の人生が流れているはず。

そういうことも、今私はたくさんの人に出会い感じています。


彼女が何を感じているのかは私にはわからない。


だからこそ。
目の前の相手のしあわせとは何だろうって、いつも問いかけ続けたい。



めんどくさそうとか大変そうとか
ネガティブになりそうとか。
好きなこと楽しいことばかりが人生のように言われてるけど

相手の本当のしあわせとは何か。


そんなことを想っていることが
私はしあわせなんです。


そう思うのが私一人でも
やっぱり私は想っていたい。


いつも目の前の相手をしあわせにしたいと願う
でも、自分には何もできない中でいい。


その人自身の想いを
感じ続けようとする人生が
私を感じられるから。


正しく生きるよりも
相手のことを想うほうが、きっとあなたらしいから。


わたしは、そんな私に戻れてほんとうによかった。

今になってさらに思い安堵しています。






べつい ちあき




どうかあなたは、あなたの想いを消してしまう前に気がついてほしいです。