自分はなんのためにいきるのか。
んー、わからない。
もっともらしい答えは今はいらない。
できることを考えるだけ。
やりたいことをやるだけ。
ひとつだけはっきりしてるのは、
誰のためでもなく、自分のためってことだけ。
自分が脇役のように感じられる時も、
誰かの為に犠牲になってるように感じる時も、
誰かの為に一生懸命になってたとしても、
それでもめぐりめぐって常に自分の為だなあと思う。
自分の為って言うと少し語弊があるのだけど、
自分がしたことで、自分もうれしくて、結果的に
だれかが喜んでくれたら、それはラッキーだなぐらいに思っていたい。
私にとって、”だれかのため”は
”だれかのせい”になる危険性を孕んでいる。
ただまっすぐにやれることをやる。
大切な人のためだったら、なにも苦にならない。
大切な人が笑ってたら、それだけでしあわせ。
一緒にいるだけでしあわせな。
最近、ひ弱なわたしの体に、
小さな命がもう一つ宿っていることがわかり、
もともと強くはない体だけど、
強くならなきゃ!
とママは最近強く思います。
まだ見ぬ小さな命ですが、不思議なぐらい、
自然に この命のためなら自分はどうなってもいい と思う。
実際そんなことになって一番困るのこのこだし、
全然よくないんだけど
普通にそう思う。
この思いは、他に例えようがない。
この十月十日の間でしか味わったことがない気持ち。
それもこれも全部自分の人生なのだなあ と思う。
お腹が痛いのは、自分なんだけど、
自分の身体であって、そうでない。
でもいまもこれからも
この身体を守れるのは自分だけ。
自分の子とはいえ、人の命を預かっているというのはまったくものすごい状態だ。
だれかの小さなこどもだった人間が、
いつのまにかおとなになり、結婚し、ある日母になる。
そんななんでもないけどすごいことを、
みんなふつうに成し遂げている。
べつにこどもを産むことだけがすごいわけじゃない。
ただ、
いろんな立場、いろんな考えの人がいる世の中で、
この世のすべての人が親から生まれて来たんだ
そう思うと、自分も母に感謝せずにはいられない。
お母さんになると、それまでの自分はどこへ行ってしまうのだろう。
どこかへ追いやられて消えてしまうんだろうか?
以前知人が、知人の母に向かって
「どうして自分も娘だったくせにその時の気持ち忘れちゃったの?」
って責めるように問いていた。
横で聞いていて、なんだか少し悲しくなった。
結婚してから少し母親の気持ちがわかるようになったから。
私は、母が娘の気持ちをどこかにしまっておいてくれたおかげで、
安心して育つ事ができたのだと思う。
もし母が母になっても娘のままだったら、
どこか無理がきて大変なことになってたんじゃないだろうか?
立場が人間を変えるというけれど、
それを受け入れられなければ、容易に人は変われない。
意識的か無意識かわからないけれど、
母は、身体の変化だけでなく、そういう気持ちも乗り越えて
自分を育ててくれたのだ。
母だって、娘で、妻で、嫁で、女性で、その他全部包括して一人の人間で、
そんな自分のいろんな面を忘れたように(実際忘れてしまうのかもしれないけれど;)
柔軟に変化しながら矛盾も飲み込んで、当然のように母親をしてくれてるように感じる。
結婚して、母になって、
人生において、もうどこにも遠くへ行けなさそうな、
なにも選べないような、そんな気持ちになることもあるけれど
それでも 強くなろうと思えるのは、
自分の親のおかげかもしれない と 熱っぽい頭で思う。