嗤う、つまらん吉本芸人たち | 労人社のブログ

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戦中日記(続労人社だより)221049号

「嗤う、つまらん吉本芸人たち」

💤漱石が漢籍文化の揺かごの中で、自らの思想の骨格を作ったように、ぼくの生き方のバックボーンは落語で、お笑いから得た。毎日、どこかのテレビ、ラジオからは落語が流れており、あははっと笑っては、世の中の表も裏の仕組みも覗いてきた。人や社会のすべてを落語をお笑いを通じて教えてもらった。まぁ、その後の漱石は漢籍にとどまらず、洋の文学、化学物理、哲学、宗教等幅広く学び続けたけれど、、

💔突然ですが、50年続いたラジオのお笑い番組(らんまんラジオ寄席)が放送中止となった。なんの断りもなくである。この番組は、プロ野球のシーズン終了した秋〜冬の定時番組であった。惨敗を喫した阪神から受けた心の痛みを癒すには、春先までの半年を、このお笑いを聴くのが何よりのクスリであった。辛いのはぼくだけではない。🎶テンノウ様もトイレに入ればカミに頼ってる♬とくりゃ。

💰さて、最近世の中が胡散臭さを増すにつれて、テレビ、ラジオからいわゆるお笑い番組が減った。NHKがほそぼそと、誰も聴かないような時間帯に申し訳程度に放送しているくらいなものだ。あほシンゾウの登場以来、NHKお得意の国会中継がシュールなお笑い中継と化しており、それで十分に埋め合わされている、とでも言うのであろうか?(118回の嘘)の怪演や野田の新作(あほ褒め)には、おもわず笑った。いや、笑ったではなく、嗤った、嗤った!

😡お笑いのお嗤いへの変質こそ現在を特徴つけるものだ。下々の住民、庶民が丘の上の豪邸のお偉いさんの高慢さ、愚かさを笑い飛ばす語り口が、いつのまにか上から目線で、他人を見下すものに変わってきた。その典型が吉本の芸人たちだ。成り上がり者も富を蓄積し、カネにあかせて贅沢な毎日で、何かを身につければ、自然と品格が備わるだろうに。だが、平成令和の吉本芸人には芸の向上どころか、生きた年輪がどこにも現れない。

😢お笑い芸がお嗤いに変質したのだ。自ら生きるために、身過ぎ世過ぎで芸?をカネにかえた昔の芸人たちは笑われて生きた。かつてカネと生きる=お笑い芸は等価であった。しかし、いまの吉本芸人はつまらん、お前らの金メッキが施された芸?は面白くもない。ただただ、現生利益にすり寄り、丘の上の豪邸の不合理に思いが及ばない。ここからお笑いは誕生しない。下々の苦しみを蔑み、見下すお嗤い芸しか生まれない。

💢お嗤い芸がもてはやしされるのは、社会自体が嗤いを価値と認定する精神が充満しているからであろう。スガが人間のかす官房長官であった時の沖縄県知事との面談で(上から目線)を続け、「戦後生まれです」と嘯いたこと。嗤うあっそう太郎の口がそのためひん曲がってしまったこと。瀬戸際大臣の記憶が飛んでしまったこと。極めつきはあほシンゾウの118の嘘。国会での答弁全体に、個人の人間的、知的資質以上に(お嗤いウイルス)に世の中が侵されたことが主因である。

☔️とすれば、秋田の酒らんまんがお笑い番組のスポンサーを降りたのも当然、納得がいく。酒を飲めば心楽しくなる。落語もお笑いもやはり心を慰めてくれる。お笑いならばだ。瀬戸際の語りは、時間と場所を違えればお笑いの極にある。(こいつバカだな)はお笑いの基本型の一つ。でも、こいつの口許には嗤いしかなかった。NHKのお笑い番組、国会中継は嗤いで満ち溢れている。見れば見るほど怒りが生じる。さて、美酒らんまんでも一杯飲もうか。