墓制の変化は社会の変化 | 労人社のブログ

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戦中日記(続労人社だより)220628号

「墓制の変化は社会の変化」

😳考古学の時代考証のひとつに墓制がある。死者を弔う方法は長く変化することがなく、逆にそれに変化があったとすれば、社会構造、生産関係、権力の形に革命、改革、著しい変化があったとみなされる。屈葬か展葬か、土葬か火葬かの違いは社会構造の違いだけでなく、その上に存在する考え方、死生観、宗教観の違いをも示す。

😇昨年暮、コロナ禍の時代に病気見舞いもままならぬ中、亡くなった姉の納骨を半年の時間を要して済ませた。子どももなく持ち家を遺して逝った姉の法定相続人は、甥姪にまで及び、戸籍確認、相続協議に長い時間がかかる。さらに、建物を解体し、更地処分をするには(コロナ禍)が、というよりコロナ行政が、庶民の生活をことごとく邪魔をした。

😱家財整理については、それが死者の資産であるが故?に、思うように処分ができない。煩瑣な事務手続きを要して、まだまだ使える家財も、必要とする人に譲ることも難しい。すべて、(処分)を命ぜられ、それも自助処分せよ!となり、公的機関の介入は皆無。何しろコロナ禍ですから、行政はもっぱら(何もしない)のが1番。だから、人ひとりを弔うのに膨大な時間がかかるようになった。

💔しかし、社会の変化が弔いの形式の違いに現れたものは、宗教の堕落に因がある。学会や幸福の科学ら政治に淫する亡者宗派は論外としても、葬祭仏教に転じた輩どもの腐敗ぶりが目に付く。南都北嶺への批判、鎌倉仏教の興隆のように、新たな宗教改革が必要になってきた。生きた哲学を喪った宗教が香典で生き延びたが、いまや、自らの教義にお香典を出すのが相応しい。

💤根本は、すでに檀家制度が崩壊してしまったことにある。都会に流れ着いた庶民は、旦那寺もなく、檀家に加わることもない。縄文人が正月の初日の出が差し込む家の入り口辺に墓を設けたのは、死んだ者の再生を念じて、または信じてのこと。そのまま、縄文人の死生観が墓制に込められている。1500年もの長きにわたり、日本人の死生観を体現し、代わりに葬祭を主催してきた宗教=仏教から死生観=哲学が抜け落ちた。

😢病院の霊安室にはいることなく、葬儀社に運ばれた姉は、システマチックに火葬場までのコースを選択させられた。聞いたことのない当番寺から戒名をつけるために(個人の人となりを聞きたい)と電話を受けた時には、驚きもし、住職よ!地獄に堕ちろと呟きもした。いまの時代、ヒトは生命がつき亡くなるのではなく、商品=モノとして死んでいくらしい。生きし時を知らず、戒名を授け得る坊主は何と素晴らしき生き物か!である。

🎶というわけで、姉の納骨には坊さんを招ばずに親族だけで執り行った。ありがたいお経より、われわれの死生観をお骨に注ぎ入れる方が、ちゃんと成仏するはずだ。支払うはずのお布施も生き残った者たちの宴に使う方が功徳になる。じつは、僧籍に身を置く友人に遠くからの出張読経を依頼していたが、折り悪しく叶わなかった。名僧のお経も愚僧の般若心経も経文は同じ。その証拠に姉は文句も言わずに墓で眠った。

😷でも、問題はどうしてここまで現代人の死生観が変わってきたのか?若者の多くが(自己肯定感が薄れている)との調査統計もある。クソ太宰のように「生まれてきてすみません」とポーズではなく、いまの社会で(生きる)ことを肯定する材料が乏しい。国民に(自助)だけを求める社会は、ニホンが侵略戦争にのめり込んだ時代と、新自由主義が社会格差を押し広げる今しかない。

✋わが家族が埋葬された都営霊園は緑に囲まれた丘陵に位置する静かな墓所である。まだ、開設数十年だと思われるが、万を超える過去の生き人の中に、唯ひとりも戦争で死んだ者がいない。これが最大の自慢である。わが墓の住人も貧乏で、社会的には無名の庶民ではあるが、自由を好み、戦争には反対だし、差別には怒りを感じる死者たちであり、それがぼくの誇りでもある。

⚡️しかし、次の参院選が終われば、自公維新、酷民君主、連合の諸氏のように金儲けのためには戦争も辞さないという輩が大手を振るうに違いない。そうすれば、この霊園にも戦争で死んだものが多く埋葬される時がくるかもしれない。原発事故しかり、戦争犠牲者しかり、国策で命を落とした庶民に対する賠償請求はなされたことがない。最近の墓制の変化から、考古学者はきな臭いものを感じることになるだろう。間違いない!