ブログネタ:先生になるならどの教科の先生?
参加中私たちが習った国語の授業は、登場人物の心理を読めとか、作者の意図は何かとか、とかく情感に訴える授業でした。数学的に割り切れるものを極力排除しているかのように感じました。
そうなると、結局、教えている先生が教科書を読んで何と感じたかという理解に終わってしまい、テストに出される問題も、授業で先生の言った通りに書けるかどうかの再確認でおしまいです。
そうではなく、言葉で書かれたものが論理的に理解できるかどうか、自分の理解していることを誰にでも理解できる言葉で表現できるか、そうした訓練こそが実社会では求められます。
叙情的な文章に触れさせるのも、心を育てるのに必要かも知れませんが、それ以前に学校で必要最低限、教えるべきなのは数学的な国語力です。
例えば、
秋はサンマが沢山捕れる
サンマは秋に捕るのが一番よい
秋に捕れたサンマはおいしい
一番おいしいサンマが捕れる季節は秋である
サンマは秋に食べるのが一番おいしい
以上の5つの文で述べている事実は全部違ってきます。「沢山捕れる」のと「おいしい」の相関関係は別に立証されなければいけないし、収穫するの時期と食べる時期が必ずしもイコールではない。
また、秋においしいサンマが沢山捕れるとしても、その時期は海が荒れているとか、他にやるべき仕事があれば、秋に捕るのが一番よいことにはなりません。
この例題は引っ掛けクイズ的な面もありますが、言葉で書かれたものを論理的に把握する訓練をしているかどうかで読み方はうんと違うはずです。また、そうしたことに考慮していれば、自分が他人に言葉で指示するときや文章で報告する時に役立ちます。
もっとも、日本語は理屈で言うとおかしな使い方がありますが、必ずしも間違っているとは言えない表現があります。
「傘持って行かないと、雨降るわよ!」
私がよく母に言われた言葉です。
雨が降るのと私が傘を持つのとには因果関係はありません。しかしこの言葉の本意は、「傘を持っていかないと困るよ、今日はきっと雨が降るんだから」ということです。
「私が部屋を出るときは、誰もいませんでした」
嘘です。自分がいたはずです。でも日本語ではこう言います。
「あのケーキ屋さん、美味しいよね」
ケーキ屋を食べたわけではありません。でもこれで理解できます。
こうした、一見おかしな表現も、論理的に突き詰めてみると意外と面白いかも知れません。
何だかもう先生になった気分で書いてしまいました。
これにて授業を終わります。