皇紀二阡六百年 遷座五拾年大祭 修築記念碑(金毘羅宮)(補足) | ねりえ日和

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前回ご紹介した、金毘羅宮の

「皇紀二阡六百年 遷座五拾年大祭 修築記念碑」です。

前回の記事は↓こちら。

 

 

皇紀2600年は、昭和15年(1940年)のことです。

碑には、背面と副碑に寄付者の芳名が記されているのですが、

金毘羅様は海上交通の神様なので、

水産・海運業関係で活躍した実業家・中部幾次郎など、

その関係の企業や関係者が複数見受けられます。

 

副碑しか確認できていないのですが、その中に、

「関門汽船会社」

「関門連絡汽船会社」

「海峡汽船会社」

と、関門海峡で汽船を運航していたであろう企業が

3社もありましたので、

各社がどのような航路を運航していたのか調べてみました。

 

まず、「関門汽船会社」(関門汽船株式会社)は、

現在も下関唐戸~北九州門司港で

定期航路を運航している会社です。

明治29年(1896年)に創業しました。

昭和10年(1935年)時点の関門海峡における航路として、

上記の航路のほか、

唐戸から岬之町、彦島(江の浦、弟子待)を経て

門司大里に至る航路も運航していたそうです。

現在は、唐戸及び門司港から巌流島に渡る

航路も運航しています。

 

「関門連絡汽船会社」(関門連絡汽船株式会社)は

石田汽船株式会社が、

昭和8年(1933年)に改称したものです

(昭和12年(1937年)と記された資料もあります)。

明治22年(1889年)、門司の実業家・石田平吉が

唐戸~門司(門司港)間での汽船運航を開始。

明治29年以降は、門司発着便を石田汽船が、

唐戸発着便を関門汽船が運航する共同運航となりました。

昭和10年時点の関門海峡では、

当該航路のみを運航しています。

昭和20年(1945年)に海峡汽船を吸収合併して

関門海峡汽船株式会社となりましたが、

昭和47年(1972年)に関門汽船と統合し、

その歴史を終えました。

 

海峡汽船会社(海峡汽船株式会社)は、

石田汽船が昭和9年(1934年)に創業した会社で、

昭和10年時点の関門海峡では、

下関唐戸~小倉砂津間の航路を運航。

その後、下関唐戸~若松間、

下関唐戸~宇部間の航路も運航しましたが、

昭和20年(1945年)に関門連絡汽船に

吸収合併されました。

 

碑の場所は↓こちらです。