勝山崩六人之墓 | ねりえ日和

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本州の西の端・下関から 石碑やモニュメントを中心に

前回、下井田バス停の近くにある

「別当薬師如来」の前に建てられている

「本源自照沙弥」の碑をご紹介しました。

↓こちら。

 

 

 

その隣に建てられている「勝山崩六人之墓」です。

昭和47年(1972年)に建てられたものです。

 

下関市勝山には、「勝山三山」と呼ばれる3座の山があります。

青山・勝山・四王司山の3座です。

「勝山くずれ」は、その内の2山に築かれた城の間で起こった

「勝山青山合戦(勝山青山の戦い)」に関係します。

 

かつて、この付近には青山弾正という豪族がおり、

青山城を居城としていました。

そして、勝山の勝山城(且山城)を弟・源三郎に守らせました

(勝山城は、大内家の家臣であった永富嗣光が

 築いたという説もありますし、

 弾正が築いたと記された資料もあります。)。

弾正の死後、若年であった息子の弾正が後を継ぎ、

叔父の源三郎は後見役に就任。

勝山城は、源三郎の重臣・高森正倫が城主となりました。

しかし、その後、正倫が津原善勝と謀って、青山城を攻撃。

弾正と源三郎を討ち破り、自身が青山城主となります。

 

※津原善勝については↓こちらもご参照ください。

 

 

1521年、大内家重臣・内藤興盛が勝山城に入りますが、

興盛と正倫との間に争いが起こります。

これが、「勝山青山合戦」です。

1527年、青山の正倫に善勝・津田興輝らが加わり、

一旦は青山の軍勢が勝山城を取り囲みますが、

勝山の興盛が大内の援軍を得て一気に逆転し、

青山勢は皆討死にしました。

「青山くずれ」と呼ばれます。

 

しかし、「勝山くずれ」も存在しているようで、

この合戦の戦死者が埋葬された墓のうち、

青山山麓にあるものを「青山くずれ」、

勝山山麓にあるものを「勝山くずれ」と呼ぶそうです。

 

 

前回掲載した「本源自照沙弥」の碑の写真ですが、

碑の背後に古い塔の痕跡が映っています。

これらが元々の「勝山くずれ」6人の墓なのかもしれません。

それが整理されて、冒頭でご紹介した墓ができたのでしょうか。

 

場所は↓こちらです。