大正時代を中心に活躍した評論家の横山健堂は、
近世の防長2箇国における、
爽快、かつ、正宗の刀のような人物として、
吉田松陰、高杉晋作と並んで、
永富独嘯庵の名前を挙げています。
王司上町町民館のそばに建てられている、
永富独嘯庵の顕彰碑です。
永富独嘯庵は、1732年に王司宇部に生まれました
(宇部市とは異なります。)。
父親は庄屋・勝原治左衛門で、
子供の頃は「宇部の神童」と呼ばれたそうです。
12歳の頃、赤間関の医者・永富友庵の養子となり、医学の道へ。
医学の傍ら、萩の山県周南からは儒学も学びました。
後、京都で医学者・山脇東洋に師事。
大阪で医者を開業した時には、
吉益東洞と並ぶ人気を博しました。
全国から藩医への招聘が相次ぎましたが、
東洋の意向もあり、応じることはありませんでした。
漢方医術の一派である古方派に属しますが、
オランダの医術も取り入れていたそうです。
更に、独嘯庵は、医学者としてのみならず、
日本で初めて製糖を事業化した人物としても知られています。
長崎において、中国清で精糖技術を学んだ長慶に師事し、
その技術を取得すると、
下関山陰側の海岸でサトウキビを栽培。
幕府が密貿易品と疑うほど良質な白糖を作ったとのことです。
なお、「独嘯庵」の名前は、彼の性格に由来します。
毒舌家だったことから、
「毒性(どくしょう)」にちなんだのだそうです。
1766年、独嘯庵はその短い生涯を閉じました。
↓このような句を詠んでいます。
「油断して 川へ嵌まるな 独嘯庵」
また、独嘯庵の子・永富亀山は、
儒学者として五島藩(福江藩)に仕えました。
碑は、昭和35年(1960年)に建てられました。
題字は、明治から昭和にかけて
裁判官、海軍法務局長、貴族院議員などを務め、
下関の実業界でも活躍した内田重成が揮毫しています。
このブログでも、何度も登場している人物です。
碑の隅には、小さく「勝原邸阯」と記されています。
勝原家の屋敷は、この地の近くにある
宇部八幡神社の東側にあったそうです。
碑の場所はこちらです。