中島名左衛門の墓 | ねりえ日和

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本州の西の端・下関から 石碑やモニュメントを中心に

先日お話ししたとおり、新地町にある妙蓮寺は

1863年の攘夷戦の時に、萩本藩の藩兵の宿舎になった場所です。

 

 

その妙蓮寺の境内に建てられている

中島名左衛門の墓と、その由来が記された副碑です。

 

中島名左衛門は長崎の砲術家で、

この墓は明治35年(1902年)に建てられたものですが、

名左衛門が死去したのは1863年のことです。

 

 

攘夷戦の頃、名左衛門は砲術指南として、

長州藩に招かれていました。

 

1863年5月、

萩本藩主・毛利慶親(後の敬親)の子・定広(後の元徳)が

台場を巡視するに当たり、名左衛門も来関しました。

そして、白石正一郎邸での軍議において、

率直に築城や射撃訓練の不足を指摘しました。

それが、若手藩士の反感を買うことになります。

 

そして、その夜、妙蓮寺のそばにあった呉服屋・藤屋

(「左こんぴら北うら道」の碑の横)に宿泊していた名左衛門は、

暗殺されてしまったのです。

 

 

墓の場所はこちらです。