今日、4月14日は東行忌。高杉晋作の命日です。
今年は150回忌に当たるということで、
市内でもいろいろと行事が催されるそうです。
「高杉東行終焉之地」の碑です。
JR下関駅から国道191号沿いに北上して新地町へ。
案内板に導かれて路地裏に入ると、
妙蓮寺の前でこの碑に出会います。
慶応2年(1866年)、胸を患っていた晋作は、
四境戦争小倉口の戦いで幕府軍を打ち破った後、
白石正一郎邸で休養します。
その後、軍務を免じられ、10月より桜山神社付近で療養。
元奇兵隊営所を改造したその住まいを
「東行庵」または「門蝨所(捫蝨所)」と称したそうです。
翌慶応3年(1867年)1月(月については諸説あり)、
晋作は酒造家・林算九郎の離れ座敷に移り、療養を続けます。
しかし、療養の甲斐なく、同年4月14日、
晋作は肺結核のためこの世を去るのです。
晋作の最期については、以下の記事もご参照ください。
(1)東行墓
(3)高杉晋作歌碑(東行庵)
なお、(1)の記事でご紹介している
「故奇兵隊開闢総督高杉晋作……」の墓碑銘については、
今日、晋作150回忌の記念事業として、
晋作の眠る東行庵に、墓誌碑として建立されました。
閑話休題。「高杉東行終焉之地」の碑に話を戻します。
この碑には、大正15年(1926年)に再建されたと記されています。
しかし、再建前の当初の碑の建立時期は不明で、
明治時代末には建立されていたようなのだそうです。
昭和40年(1965年)、碑設置箇所での開発計画を受け、
林邸の一角であった現在地に移転しました。
碑の揮毫は野村素介(素軒)。
七卿落ちの際に、七卿の付人に加わったこともある長州藩士です。
維新後は貴族院議員などを歴任。
書の名手としても知られています。
また、平成26年(2014年)には、白石家からの寄附を元に、
この地の整備が行われました。
その落成式の際には、晋作と正一郎の子孫の方により
記念植樹が行われています。
晋作の愛した梅の木でしょうか?
(晋作と梅についてはこちらをご参照ください。)
碑の前の側溝の蓋には高杉家の家紋が描かれています。
碑の場所はこちらです。
〔追記(平成31年3月16日)〕
「門蝨所(捫蝨所)」の表記については、こちらをご参照ください。