長府博物館の脇、万骨塔 の裏側に
建てられている碑です。
三角の部分に「誰」、
丸の部分に「知」、
四角の部分に「吾」
と書かれています。
合わせて「誰知吾」、
「誰か吾(われ)を知らん」ということです。
碑の中には、長府博物館の前身・長門尊攘堂を建設した
下関の篤志家・桂弥一にちなんで、桂の枝が、
そして、長府博物館に功績のあった2人、
椿惣一の万年筆と、井上勝一の舞扇が
遺品として収めされているそうです。
椿惣一は、下関の教育界に功績を残した教育家です。
大正5年(1916年)、長府町長・原田政佳が
「県下第一の人材を長府の小学校に」と要請し、
豊浦尋常高等小学校長に着任。
18年間にわたり、その任に就きます。
「県下の若手教師は、一度は豊浦尋常高等小学校を訪ね、
椿校長に接することが最良の研修である」と言われていたそうです。
その後、下関盲唖学校長や長府図書館長などを歴任し、
昭和24年(1949年)(※)財団法人長府博物館初代館長に就任。
15年間、その任を務めました。
※「昭和22年」「昭和23年」と読み取れる資料もあります。
井上勝一は、財団法人長府博物館の専務理事を務めた人物です。
鉱業・化学工業界で活躍。
乃木希典を敬愛し、希典の親友でもあった桂弥一とは
親交が深かったと言います。
昭和8年(1933年)に長門尊攘堂が建設されると、
財団法人尊攘堂の理事に就任。
戦後は博物館の専務理事となりました。
長門尊攘堂建設以来40年近くを
長門尊攘堂と長府博物館の発展のためにに尽力したのです。
2人は大変仲が良かったそうです。
「いつまでも博物館に一緒にいたい」という思いがこの碑を産み、
「碑に名があるのも困るが、
碑に名がないのも人様に迷惑をかける」ということで、
「誰知吾」ということになったようです。
場所はこちら です。