七卿遺蹤碑 | ねりえ日和

ねりえ日和

本州の西の端・下関から 石碑やモニュメントを中心に





功山寺の本堂前にある碑です。

「七卿遺蹤碑」と書かれています。


長府毛利藩最後の藩主である元敏の子、

毛利元雄が揮毫と撰文をしています。



元治元年(1864年)12月15日、晋作は功山寺で

長州藩俗論派打倒のための兵を挙げました。

「功山寺挙兵」「回天義挙」と呼ばれるものです。


功山寺には、三条実美ら5人の公家が潜居しており、

晋作は、彼らに長州男児の肝っ玉を見せると挨拶し、

兵を挙げるのです。



さて、実際に功山寺に潜居していた公家は5人ですが、

前年の、八月十八日の政変の結果、

京を追われることになったのは7人です。

いわゆる「七卿落ち」です。


なので、この碑も「七卿」と書いてあります。



ちなみに、功山寺側が5人の公家を

積極的に受け入れたのかというと、そうではなく、

無理強いをして宿泊させてもらっていたようです。



場所はこちら です。