中山忠光朝臣隠棲之地 | ねりえ日和

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本州の西の端・下関から 石碑やモニュメントを中心に

下関市内には「中山神社」という神社が2箇所あります。

1箇所は綾羅木、

もう1箇所は豊北町田耕(本宮中山神社)にあります。

いずれも、青年公卿・中山忠光を祀っています。



中山忠光は明治天皇の母方の叔父にあたります。

尊王攘夷運動に身を投じ、

文久3年(1863年)、久坂玄瑞率いる光明寺党の党首として、

外国船砲撃に参加します。

その後天誅組の主将として挙兵しますが、失敗。

長州に逃れ、各地を転々とします。

そして、最終的には、田耕の地で暗殺されるのです。


長州での潜伏中に、忠光は商家の娘・恩地トミを側女とします。

そのトミとの間に娘ができ、その娘は後に嵯峨侯爵夫人となります。

そして、その孫が「流転の王妃」愛新覚羅浩

(「ラストエンペラー」愛新覚羅溥儀の弟・溥傑の妻)であり、

更に、その娘・慧生は「天城山心中」で話題となりました。


溥儀の末弟である愛新覚羅溥任氏が

今月10日に96歳で亡くなりましたが、

そのことを思ってみても、歴史というのはつながっていくもので、

過去というものは今に至るものであるということを

しみじみ感じたりします。



さて、恩地トミが忠光に仕えたのは

元治元年(1864年)6月頃のことですが、

その頃、忠光は下関の延行の地に隠れ住んでいました。

忠光は同年1月から7月まで滞在していたそうです。


その地に、「中山忠光朝臣隠棲之地」という石碑があると知りました。

昭和11年(1936年)に建てられたもので、

題字を下関豊浦出身の内大臣・湯浅倉平が

揮毫しているのですが、

調べて得られた情報は、石碑の外観と

「下関北運動公園の裏の山すそにある」ということだけ。

このご時世なのに、Web上では画像すら見つかりません。

ストリートビューでも見つかりません。



「よし、探してみよう」と思い立ち、延行の地をウロウロウロウロ……

なかなか見つかりません(><;)


実はそれもそのはずで、

ねりえが当初探していたのは北運動公園の南側、

田んぼ等を挟んで反対側の山すそだったのです。

だって、その辺に住宅がたくさんあるから、

そちら側に匿われていたのじゃないかと思ったのですよ!o(TωT )


で、そこら辺をウロウロしているうちに、

下関北運動公園の裏側が

結構山みたいになっていることに気付きまして、

「もしかしてここのことか!?」と思い、そちらを探してみたところ……

あった!!o(^▽^)o


本当に下関北運動公園の裏でした(^^ゞ



というわけで、Web上ではもしかしたら初公開かもしれない、

少なくともググっても出てこない、

ストリートビューにも映っていない、

「中山忠光朝臣隠棲之地」を大公開!!



……長くなったから引っ張ってみようかな(ヲイ!)( ´艸`)


明日公開します!!(≡^∇^≡)