海外ニートさんの「仕事なんてクソだろ?」ブログ公開停止 | One of 泡沫書評ブログ

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世の中にいったいいくつの書評ブログがあるのでしょうか。
すでに多くの方が書いているにもかかわらず、なぜ書評を続けるのか。
それは、クダラナイ内容でも、自分の言葉で書くことに意味があると思うからです。

海外ニートさんがブログを閉鎖されたらしい。詳しいことは調べていないが(調べる気にもならないが)、伝え聞くところによると、個人情報をつきとめられ、2chかどこかで脅されたということである。本来であれば裏取りしてから書くべき話かもしれないが、おそらくこれは事実であろう。かつて何度も似たような事件があったからである。

海外ニート氏は28歳までパチプロなどをしてだらだらと過ごす、いわゆる「ニート」であったらしいが、オーストラリアにステイしたときにその自由さに感動し、一念発起して英語を学びつつ、そのまま海外へ移住してしまったという方である。日本の閉鎖的な空気に耐えきれず、この国で普通の生活を送ることは諦めていたと語っていたが、そのネガティブな動機がポジティブな行動につながっていったわけだ。ドロップアウト組のヒーローといえよう。もちろん、「世捨て人」を尊敬するわたしにとってもかれは「ヒーロー」であった。わたし自身、かれのブログには大きな影響を受け、いかに自分が有害な「社畜」になっていたのか蒙を啓かされたものである。わたしにとっても思い入れの深い方である。今回の事件は非常に残念であった。

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海外ニートさんの主張は明解だ。まとめると、要するにこういうことであろう:


「体育会系的な暴力文化のもとで、理不尽な労働環境で長時間労働に価値を見出し、それでも低い生産性しか実現できない日本社会、日本企業は間違っている。それはただの社畜だ。もっと多様性を尊重し、人間らしい生活ができるように意識を改革すべきである。結局のところ仕事などたいして重要ではなく、もっとも大切にすべきなのは自分自身の健康であり、家族なのだ。社畜は知らず知らずのうちに多様性を排し、社畜を拡大再生産しようとしている。この不幸の連鎖を立ちきり、人間らしい働き方を取り戻そう」


現在、このような価値観は若い人を中心に大きな支持を集めている。これは間違いなく海外ニートさんのブログの影響力によるものだろう。かれはあたらしい価値観をもつ若者にとってのオピニオンリーダーであった。ネット上では、多くの元社畜がこの不幸の連鎖を終わらせようと奮闘しているのをよくみかける。わたし自身、どちらかというと社畜的な働き方をしているが、心情的には海外ニートさんの主張に心から賛成している。成果を問わず、単なる前例踏襲主義としての長時間労働はたしかに「クソ」だ。さっさと帰りつつ、成果を挙げる方がよっぽどマシだと思っている。

しかし、もっと大きな社会システムとして考えるとどうだろうか。かれの個人的な価値観がマクロに成り立つかどうかは疑問に思っている。もう少し歴史的な経緯を踏まえ、わが国における労働観に即したwork ethicを考えないと大きな誤解を招くだけではないかと危惧している。

このあたりは難しいが、頑張ってもう少し具体的に書いてみよう。かれの考え方は素晴らしいと思うし、個人の働き方としては諸手を挙げて賛同するが、もう少し視野を広げて、日本企業の労働観とマクロに寄り添うためには、少々ひねりが足りないと考えている。こうした豊かな働きかたを実現するには、前提として高い生産性が担保されていなければならないからだ。かれは海外にその解答を求め、実際に手に入れた訳だが、日本においてはおそらく一足飛びには実現できないであろう。皆が海外ニートさんのような働きかたをすれば、日本は単に労働生産性の低い、どうしようもない国家になってしまうのではないか? この高い生産性を維持できるであろうか? わたしはこの点についての解答をもっていない。したがって、心情的には共感しつつも、制度として取り入れるにはもう少し考えなければならないと思っている。

だが、仮にわたしの主張が正しいとしても、これまでの一方的な社畜文化に一石を投じ、多くの元社畜に希望を与えた海外ニートさんの評価が変わるものではない。

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一般に日本企業はゲマインシャフトであるといわれる。これは山本七平氏のことばを借りれば、企業とは機能集団ではなくひとつの共同体であるということだろう。共同体では、契約によって労働力を提供しその対価を金銭で支払うというような、いわば英米的な企業体としての機能は副次的なものであり、まずは共同体の一員としてどのようにふるまうか、という倫理が期待されるわけである。そこで空気を読まず、ルールにしたがわない反社畜はもはや理屈ではない。排除(村八分)すべき異物に過ぎないわけである。

こうした文脈で海外ニートさんの問題をとらえるとよくわかる。共同体の一員は、かれのような危険思想を持った人間はなんとしてでも排除しなければならない。捨ててはおけない。しかし、追放しようにももはや国から居なくなってしまっているので何ともしようがないわけだ。言論で勝負しようにも、そもそもこれは価値観の問題であるので、宗教戦争のような体を帯びてくる。互いの神を懸けて争っているのだが、一方はじつに享楽的な考えであり、社畜側からすると許すべからざる存在である。放っておけば多くの同志が感化され、競争力が失われてしまう(と社畜側は信じている)。ではどうすればよいか。どんな手を使ってでも、言論を封殺するしかないではないか。

これが、個人情報を収集してまで海外ニートさんを潰そうとした動機であったと、わたしは考えるのである。

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わたし自身、社畜的な働きをしている一方、社畜的な生き方を否定しているので、このあたりのアンビバレントな感情はなんとなくわかる気がする。皆、自分がおかれている立場を超然として批判されるのは耐えられないものだ。だがそうだとしても、こうした禁じ手による言論封殺は許されるものではない。自分と異なる考え方の人とも、あくまで議論によってたたかうという大原則を守れない人は巡り巡って多くのものを失うであろう。「異論に耐える」これこそが、わが国が成熟するために最初に必要なリテラシではないだろうか。

いつの日にか、海外ニートさんがブログを再開してくれることを切に願うものである。