新年明けて、改めて昨年度の更新頻度の少なさに我ながら驚いた。もともと、ボケ防止の一環で始めた書評ブログなのだが、こうまで更新が少ないとはっきりいって得るものは非常に少ない。こうした泡沫ブログをなぜわざわざ公開するかといえば、自分の考えをちゃんとことばにできるようにする訓練として、ブログという仕掛けが非常にてっとり早いからである。この程度の駄文は、まともに現代の教育を受けた人々なら誰にでも書けるくらいの、まあどこにでもある水準であるが、実際に自らことばを操って文章を書くというのはそれなりに根気や熱意、努力が要るものである。ということで、継続を期して、あえて自らに課してみたわけだが、蓋を開けてみてこの更新頻度では、当初の目的は到底達せられていないというべきであろう。
さて、前置きはこれくらいにして、今日は「水からの伝言」について少し触れてみたい。ただし、書評ではない。というのも、私はこの本を読んでいないからだ。たんに、この本を取り巻く状況に非常に興味をそそられたのである。
「水からの伝言」は、江本勝氏が、その著書「水は答えを知っている―その結晶にこめられたメッセージ」で紹介している説である。簡単に要旨を述べると、水に「ありがとう」などの「いい言葉」をかけていると、きれいな結晶になり、逆に、「ばか」などの「わるい言葉」をかけていると、きたない結晶になるというものである。一見してトンデモ系の話だと思われるが、この説は学会でも発表され、ある教職員の団体(?)によって多くの教育現場において道徳教育の題材として使用されたというものだそうだ。インターネットの話題としてはいささか旧聞に属するものかもしれないが、私はつい最近この話をまったく別の場で知り、科学的リテラシというものについて改めて難しさを感じたとともに、大きな衝撃を受けたので、あえて取り上げてみた次第である。
疑似科学についての論議は、インターネットに限らず非常にセンシティブにならざるを得ない。たとえば、最も象徴的な「血液型性格判断」についてはもはや流言飛語の域をはるかに超え、常識にすらなっている観がある。日常生活において、この手の話題を聞かないところはなく、血液型の話を聞くたびに「そんなペテンを信頼するような話題はやめなさい」と説いて回ることは至難の業である。周囲からの反発は容易に想像され、進んで村八分になろうとする愚か者を演じなければならなくなるだろう。しかし、これなどは逆に広く人口に膾炙している一方で、科学的には誤りであることが明白であるため、社会においては単なる飲み会の話題の域を超えていないともいえそうだ。あえて敷衍すれば、飲み屋で「俺ってA型だから、部屋をちゃんと掃除しないと気が済まないんだよな~」というサラリーマンはいても、「あそこの部長はB型だから交渉が難しいよ」などというサラリーマンは、日本にはいないということである。そういう意味で、放置してもそれほど問題はないのかもしれない。
本質的な問題は、疑似科学を容易に信じてしまう層がある一定数存在し、それらのひとびとがそれなりに社会的影響を持ちうることであるのだろう。疑似科学を熱心に批判するひとびとの骨子もそこにあり、私がこの話題を取り上げたの理由もそこにある。たんに、社会生活を営む上での表層的な影響がないというだけで、見逃してしまってよいものだろうか。こうした疑似科学の蔓延が、本来の科学のもつ本来的な意義を無効にしてしまうのではないか。そういう危機感が、科学者たちをして、警鐘を鳴らしめているのではないかと推測する。元来、科学的であろうとすることは、すくなからず観察者に忍耐を強いるものであるが、善良で無垢なひとびとは「科学で判らないことはまだまだこの世にはある」という論法で安易に疑似科学を受け入れる。そこには、動機が正しければ手段は問わないという、じつに日本的なエトスがみてとれると考えるのは、私の勇み足であろうか。観念的な「美しさ」や「きれいさ」に最大の価値をおくという考え方が我が国においては支配的である、というのが私の観測であるが、もちろんこれはたんなる思い込みで何の根拠もない。
なお、水からの伝言については学習院大学の田崎晴明氏が精緻な反論をしており、私もこのテキストを最初に参照した。(「水からの伝言」を信じないでください。 ) ご覧頂くと一目瞭然だが、プロの力量というのを目の当たりにした、という思いである。2ちゃんねる的な放言なら私にもできるが、こうした視点で疑似科学を冷静に論じられるというのは、確かな知識に裏打ちされた自信があってのことであろう。たんに、「水からの伝言」の誤謬を指摘しているだけでなく、疑似科学の陥穽にはまり込みやすい人の疑問に答えるかたちで簡単なQ&A形式で説明されており、そもそも科学的であるというのはどういうことか、という根本的なところまで理解できるように工夫されている。他の批判サイトは、論理的には誤っていないのだが、残念ながらその説明があまりに感情的、直接的にすぎ、かえって疑似科学の信望者たちを意固地にさせているように思う。たしかに、疑似科学のもつ本質的な危険性は理解できるが、私も、田崎氏のいうように「私は、その(「水からの伝言」にある説を事実であると信じている:引用者注)ような確信をもっている人たちの考えを、容易に変えられるなどとはまったく思っていませんし、あえて変えなくてはいけないとも思っていません。」というのが妥当な姿勢だと考えている。こうした、ひとびとの信念にかかわる領域は、すくなくとも外野がどうこう言って強制すべきものではないだろう。そこまでしたくなる誘惑をこらえ、たんに、科学的であろうとすることはどういうことか、という指摘にとどめておく、これこそがほんとうの知恵といえるのではないか。(ちょっとホメすぎかな?)