魍魎の匣 | One of 泡沫書評ブログ

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魍魎の匣


映画のほうである。


年末、カウントダウンなどというわけのわからない行事に浮かれる連中を尻目に、レイトショウで観てきた。じつは前作「姑獲鳥の夏」も映画版を拝見したのだが、京極作品は映画に向かないな、という感想を持った記憶がある。今回も想像通りというかなんというか、やはり京極作品は映画というメディアに向かないという感想を強く持つに至った。京極のペダンティックな作風は、活字でこそ活きる。


が、と言い切ってしまうと面白くもなんとも無いので、見所を挙げてみよう。


まずはキャストだ。私が考えるところのもっともハマった役は、京極堂こと中禅寺秋彦の妹、敦子その人である。田中麗奈。猫のような元気娘、ネコ娘(というか、まさに猫娘だったわけだが)という意味でイメエジ通りである。演技も大根で無いところが良い。


続いて榎木津礼二郎である。これには「結婚しない男」阿部寛が中々どうしてハマっている。しかし、繰り返しになるがやはり活字の榎木津と違い少々常識人となってしまっている。物語の進行上、致し方の無いこととはいえやはり残念であろう。とはいえ阿部寛以外ではもっと抜けて見えるであろうから、やはりハマっているほうと言えるのではないか。


一方で京極堂こと中禅寺秋彦は堤真一である。これは前作から思っていたことだがやはり妙だ。堤真一は名優ではあるが、京極堂の陰鬱な感じがまるでないのが良くない。やはり、京極堂だけは京極夏彦本人がやるべきであろう。明らかに京極堂のイメエジは京極夏彦本人である。が、今の邦画界を見渡してみても他に居ないのであろう。そういう意味では可も無く不可も無く、といったところか。


なおそれ以外は一様にいただけない。唯一、美馬坂博士のみは柄本明の無表情さが良かったような気もしないでもないが、木場役の雨上がり宮迫などは完全なミスキャスト、柚木陽子役の黒木瞳などは年を取り過ぎであって見ていて非常に違和感を持った。また久保竣公役のクドカンなどは完全なミスキャストだ。一方で青木刑事役の堀部圭亮と荒川良々はそこまでひどくなかったが、このへんは誰がやっても良かったのかもしれない。まあ、どの道脇役は脇役である。


しかし一番ひどいのは我らが関口巽役の椎名桔平であろう。どう考えてもおかしい。関口だけは前作「姑獲鳥の夏」からキャストが変わっている。(前回は永瀬正敏) 椎名はよろしくない。はっきりいってまるでダメである。なぜなら目鼻立ちがはっきりし、しかもはきはきしゃべる。こんなのは関口先生ではない。第一サルっぽくない。永瀬のほうがもっとサルっぽくて良かった。おどおどした感じが出ていてよかった。本作品をダメにしている最大の元凶は、おそらく椎名というミスキャストにあると思う。(椎名桔平は「不夜城」で富春の役をやっていたが、ああいうのがハマり役なのだろう。こうした陰鬱な、自信のないダメな人間をやらせてはダメだ)


と、勝手なことを述べてきたが、続いて内容の批評に移ろう。といっても既に大まかな感想は述べたとおり、京極作品は活字媒体に限る、と思う。映画は特にダメだと思う。なんせ尺が足りない。どうしたって説明不足になるし、脚本を追うだけで時間があっという間に過ぎてしまう。今回などあまりに急ぎ足だったもので、原作を知らない人間は間違いなく置いてけぼりを食ったであろう。しかしこれは脚本家が悪いのではない。メディアの制約上致し方の無いことなのだ。なんせ原作は1000ページを超える、あのクソ分厚い「サイコロ本」である。これを2時間少々の邦画枠に収めようと言うほうがどうかしている。テレビドラマなら最低でも1クールあるが、2時間じゃあ昼のサスペンスと同じ尺しかないのだ。これで京極節を説明しきれる脚本家が居たらまさに京極夏彦も脱帽であろう。



というわけで、映画は、熱心な京極ファン以外は、観ても得るところ少なし、であろう。



ちなみに私はこれに触発されて文庫版を再読した。二日かかったがやはり活字で読むべきだと再確認した、とだけ付け加えておこうか。なお京極夏彦様のご尊顔はこんな感じ である。


何がすごいって、活字に対する愛情がすごい。京極夏彦は、手放しで尊敬できる頭脳である。


「みんな『本が高い』って言っていましたが、高くて当然だと思ってたんです。こんなにおもしろいのに、何を文句言うんだろうって。『書いて、ハイ、出しました』というものではないはずでしょう。何人かの編集者なりの目を通って、おもしろいから出そうということになるわけで。ありがたく読むわけです。おもしろいはずなんです。読めば読むほどおもしろくなるんです。おもしろくなるまで何百回も読みます」。


言うことが違う。やはりモノが違う、というところで、今年第一発目はこれでおしまい。