税理士試験受験の三年め。平成5年8月、相続税法の受験勉強開始。
同年12月の結果発表で、法人税法合格。これで三科目合格済。必修科目は終わった。
平成6年5月のGW明けに出勤するまではまあ平穏に仕事・家事・受験を何とかこなしていた。平穏で波風の立たない人生を過ごせる人は多分少なくて、私も多数派なのだろう。
暦通りのGW休みが終わって出勤した日の夕方に、L子と私の二人が所長室に呼ばれる。L子と私は同年齢なのだがなんとなく価値観や考え方が合わないタイプだったので、親しくしてはいなかった。そのときに所長から言われたことは、所長が顧客対応を失敗して収入のうちに比較的大きな割合を占めている某企業との契約が突如終わることになった、早期の業績回復は望めないので給与が比較的高い二人が退職して欲しい、というものだった。L子については労働法に従って一か月後の退職、私については税理士試験受験を控えているので受験が終わった秋に退職ということにしたいのだという。
L子と私が職場以外で長く話をしたことはそれまでなかったのだが、そのときは職場近くの喫茶店でお互いに頭の整理をするために言われたことを何度も確認しながら話し合った。L子は前に勤務していた大手企業の労働組合に知り合いがいるので相談してみると言いだした。二人だけで話し合っても前向きの考え方が出てこないのだからそれはいい方法だと思って賛成した。私は後に労働基準監督署と高校の同級生で開業している弁護士など複数の窓口に相談に行ったのだが、すぐには行動できなかった。
夫婦で状況を話し合い、とりあえずはこれまで通りに勤務しながら受験勉強を続けるしかないので、受験が終わってから労働基準監督署に相談に行こう、ということにした。前年の8月からその5月初めまで必死で勉強してきて、学校内での評価は合格の可能性が比較的高いとされる状況まで来ていたが、7月末の本試験まで3か月弱しか残されていない。これまでの努力を無にするわけにはいかない。余計なことは考えたくない。そう、それは私にとっては余計な出来事。今は、忘れたふりをするしかない。
その後出勤したら、私たち二人が退職することは既定の事実として皆に知れ渡っており、その点について職場内で話し合うことはもうなかった。所長から、雇用保険の離職票に書く退職理由は「勤務先の都合」と書いてあげるから、と言われたときには、「自己都合と書いたらそれは虚偽ですよ」と言い返したくなるほど頭に来たのは仕方がないと思っている。
そして私は朝起きることができなくなった。仕事は休むしかない。時間ができたので勉強ができるかというと全くはかどらない。何を読んでも頭に入らない状態が続き、夜はよく眠れないせいで昼間ふらふらする。このときには、神経科クリニックを受診している。入院してしまうほどではないが何もできない状態になった。この状態から抜け出そうと焦るのが一番良くないと医師が言う。焦らない。焦らない。自分を追い込まない。
結局、退職して欲しいという申し出を受けてから後はほとんど仕事をすることなくL子よりも早く私は退職した。その後も7月に受験コースの授業がすべて終了する時期までのほとんどを自宅でグダグダ過ごしていた。とりあえず余計な出来事を忘れて勉強に専念できることを喜べるほど強靭な神経は持っていなかった。受験は申し込んでいるから受けるけれど、たぶん合格できないだろう、そう感じながら試験直前に近づいてようやく少しづつ勉強を再開した。
7月終わりの暑い会場での本試験が終わった。この年は始めから肩の力が抜けていたためさほど緊張しなかったこともあり、自分で予想していたよりは問題が解けたとは感じたのだが、合格する自信は全くない。だからと言って同じ科目を再び勉強するのも嫌だと思い、その8月からは5科目めの受験科目として所得税法を選択した。
本試験受験が終わった後、ハローワークなどで再就職先を探していたのだがすでに30代後半になっていた私が条件に合う求人募集がほとんどない。ハロワの担当者も、このまま受給できる期間の最後まで雇用保険を全額受給した方が焦って条件の良くないところへ就職するよりも収入がいいはずだと言い出した。結果的には最後まで受給したのだが、再就職したいという意志は変わらなかったのでチャンスを見つけては採用面接を何度も受けて断られてを繰り返している。
8月に所得税法のコースが始まった時点では求職中で無職だったので、このコースでは昼間のコースに初めて参加した。そこで初めて、受験友達みたいな感じでおしゃべりができる知り合い女子グループができた。昼間のクラスに来ている人たちなのでほとんどは無職。以前は働いていたのだが本気で受験するために離職したのだという人もいた。皆、同じ学校で教壇に立っているY男先生と私が夫婦であることも知っていた。
