税理士試験受験の三年め。平成5年8月、相続税法の受験勉強開始。
Y男先生は同年7月本試験後の解答解説会を最後にD校を円満退職し、同年8月からO校に勤務し始める。担当科目は法人税法。
私より長い期間受験勉強をしていたと思われる少し年配の女性。私と同じ相続税法のほかにY男先生の法人税法を受講していた。あるとき私に声をかけてきた。それまで、顔は見知っていたのだがこんにちは等のあいさつぐらいしか交わしたことはなかった。あの、少しお時間いいですか?物腰は柔らかく明るい笑顔だったので、なんでしょうか、と会話に応じた。
最初に聞いてきたのは、その日より少し前の日付に、私たち夫婦はどこで何をしていたのか、ということだった。なぜそんなことを聞くのかが理解できなくて、いったい何を聞きたいのでしょうか、と聞き返す。彼女が問題にしたその日に、外出先から帰宅したら、自室にあったカレンダーがなくなっていたのだという。で、なんで私たちのその日の「アリバイ」が必要なんだろう?平成5年12月、その年の結果発表が近づいていた時期だった。
話によれば、自宅からカレンダーがなくなり、同じ時期に学校のロッカーに入れていたはずの法人税法の教材の一部がなくなったのだそうだ。これまでにそういう経験がないのだが、昨年と比べて大きな変化といえばY男先生が学校に新たにやってきたこと。氏名住所電話番号などは受講申込書に記載しているからクラスを担当しているY男先生は知ろうと思えば知ることができる。
だ、か、ら、自分のものがなくなった「事件」の犯人はY男先生であると特定できている。ことを荒立てないであげるから、盗ったものを返還して謝罪せよ、と主張する。そして決め台詞のように言う「踏みにじられた私の人権はどうなるんですか」。論理が飛躍しすぎている。
こういう時にどうして「人権」なんて言葉を使えるんだろう。自分のものがなくなったことが理不尽だから人権侵害されたと思う?だったら、自分の推理だけで他人を犯人扱いする行為は人権侵害じゃないの?もっとも、憲法で言う「基本的人権」って自分にとって不都合なことを強いられないという単純な意味じゃないんじゃないかな。話せば長くなるだけだと思ったので、その場では「人権」についての議論はしていない。
彼女の自宅からカレンダーがなくなった日付の、私たちのアリバイを証明せよという。その日は平日でY男先生は学校は休みで、私はいつも通り仕事に行っていた。Y男先生が自宅でのんびりしていたとしても不自然ではないが、アリバイを証明することはできない。推理小説やドラマでよく問題になるアリバイ。一般人でいつでもプライベートの行動に関してアリバイを証明できる人はかなり限られているだろう。アリバイがないから犯人だと決めつけては危険だ。
そんなに疑いたいんだったら本人に聞けばいい。配偶者とはいえ相方のすべてを把握しているわけじゃないし、私があなたの容疑は間違っていると言っても信用する気はないんでしょう。
たぶん職員室にいるであろう本人に聞きにいかないのは事を荒立てたくないからなのだと言われても、いやたぶんあなたは自分が言っていることがおかしいとわかっているから全く責任のない私に人目につかないところでこういう話をすることで一種のストレス解消しているのよね、、という返事をすれば火に油を注ぐ様なものだよなあと思いつつ、言葉を選んで会話をしながら、誰かが中断してくれないだろうかと少し期待していた。(このころまだケータイを持っている人は少ない。私もY男先生も持っていない)
その空き教室に別の受講生が入ってきたことで対話は中断されて、私が一言も謝罪らしきことを口に出さなかったのがかなり不満だったのだろう、翌日には授業が済んだあとの職員室に彼女は乱入したのだった。私は職員室には入れなかったが彼女が来たことは知っていた(前日の出来事はすぐにY男先生とその上司に報告している)ので、かなり時間がたって彼女が帰っていくまで守衛さんと一緒に別フロアで待機していた。
職員の誰も彼女の主張する「Y男先生犯人説」を信用することはなく、実際に「盗って」いないものを「返還」してもらえるはずもないまま逆にストレスを増強させた形でいったん帰った彼女は改めて自分がマズイことをしてしまったと感じたのだろう、すぐに受講形態を通学から通信講座へと切り替える手続きをして学校には顔を出さなくなった。
彼女が「盗られた」と主張していた法人税法の教材は本人が借りていたロッカーの上部に置いてあったのが後に清掃管理の方によって発見されたと聞く。たぶん、自分でいったん上に置いて、そのまま忘れたんでしょう、というのが先生方の見解だった。
私自身が最初の結果発表が近づいたときにとてもナーバスになってしまったことを思えば、受験生にとって12月に入ったころは一種複雑な心の動きがあって、それがどういう方向に出るのかは人によって違ってくる。彼女もそういう時期だったのかもしれない。
その年の結果発表期日が来て、なぜか私宛の通知がなかなか届かない。書留ではない普通郵便なので集合郵便受けに届くはずなのだが、数日待っても届かない。その時期は天候不順や交通の乱れなどで郵便物が遅延していたわけでもなく、他の生徒さんからは続々結果報告が来ているという。
集合郵便受けのダイヤル合わせは単純なものだから、他人の郵便受けを空けようと思えば簡単らしい。私はトライしたことはないのだが、ピッキングなど開錠の手腕がなくてもできるようだ。郵便配達の時のトラブルで他の人の郵便受けに配達されてしまったのだろうか。それとも誰かが郵便受けから持ち去ったのだろうか、だとしたらその人に何の得があるのだろう、と考えてみてほんの少しだけ前述の彼女の存在を思ってしまったのは後から考えれば申し訳ないことなのだが、そう思ってしまうくらいに私もナーバスになっていた。
やっと私宛の結果通知が届いた。今度は未開封のままで天井の蛍光灯に向けて透かして見た。枠のような罫線があるように見えた。合格かもしれない。急いでハサミで開封する。
合格していた。これで三科目が合格済になった。必修科目は終わったのだ。あとはとにかく来年夏に相続税法合格に向けて頑張るだけ。平成6年は平穏な年になりますようにと願う。
