税理士試験受験の三年め。平成5年8月、相続税法の受験勉強開始。

 

Y男先生は同年7月本試験後の解答解説会を最後にD校を円満退職し、同年8月からO校に勤務し始める。担当科目は法人税法。
 
結婚するにあたって仕事を続けようかやめようかとか、受験を続けようかやめようかとかについて悩んだどころか考えたこともなかった。周りの人たちからはご主人は理解があっていいですね、とよく言われたのだが、結婚に当たって女子のほうが仕事をやめるべきだとか受験をやめるべきだとか考える人だったら根本的に付き合っていないと思う。その辺で意識が近かったからこそ結婚に踏み切れたのだと思う。離婚した母子家庭で育った割には家事にほとんど手を出そうとしない人だったことは誤算の一つだったけれど。
 
O校はY男先生の職場であり、私にとっては受験勉強のために行く学校。Y男先生のクラスの生徒ではないので私が毎日学校へ行ってもそうそう出会うわけではない。それまでのD校では職員室はオープンスペースで学校に来た人は職員室の横を通って教室に入る形式だったのだが、O校では専門の受付があり別フロアの職員室のドアは大体閉まっていて、先生方と挨拶を交わすことなく教室に入る形式だった。
 
私からアピールしたことはないが、Y男先生と私が夫婦であることは学校から隠すようにという指示はなかったので特に隠していなかった。Y男先生は授業で「うちの嫁さんが」というネタを多用していたらしいので多くの人が「Y男先生のお嫁さんはこの学校で勉強している受験生」であることは認識していたようだ。そして私に話しかけてくる生徒さんの多くは私について誤解していた。
 
授業前に教室にいたら声をかけてくる人がいる「あなたがY男先生の奥さんですか」。大体こういう風に聞いてくる人は私の知人ではないので初対面のことが多い。私が「失礼ですがあなたのお名前をうかがってもいいですか」と名前を聞いてもそれに答えない人が後で自分の友達に話す「Y男先生の奥さんは愛想のない人だ」。回りまわって別の人からそういう話を聞いたことは何度もあるが、初対面の人に自分の名を名乗ることもなく話しかけてきた人に「失礼ですが」と応対することについて愛想がないといえることがとても不思議だった。
 
あるときには、「Y男先生と結婚したことがきっかけで受験を志したんですって」と聞かれた。「いや、受験を始めたことがきっかけで知り合ったんです」、と説明しても大体次にまた同じことを聞かれる。「Y男先生の影響で仕事を始めたんですって」と聞かれて、「知り合う前から仕事はしていました」と答えることもあった。どちらも質問者にとっては「既定の事実」だったらしく、その後何度も同じ人から同じことを念押しされては否定している。君のことは知っているよアピールをしたかったのかな。情報が間違っていたけれど。
 
「Y男先生の法人税の授業、楽しいですよね」
「そうですか、ありがとうございます」
「え、あの授業受けているんでしょう」
「私は今は相続税法を勉強しているのでQ先生のクラスなんです」
「どうして法人税法を受けないんですか」
「この夏に法人税法を受験したので今は次の科目に進んでいます」
「じゃあ、Y男先生が前に勤務していた学校でY男先生の授業で法人税法を勉強したんですね」
「いえ、法人税法はこの学校でM男先生のクラスでした」
「では、Y男先生の法人税法の授業は」
「ごめんなさい、受けたことがないんです」
「えっ、そんなあ」
「楽しいと言っていただいてありがとうございます」
 
こういう会話は何度もしている。同じ相手と同じ会話をデジャブだと思いながら繰り返す。人にとっては私が何を勉強しているのかなんてどうでもいいことなのでいったん思い込んだらその記憶を書き換えることは少ない。私だって相手との会話で自分が興味を持てないことを全然覚えていなくて不興をかってしまったことはあるので責めるつもりはない。単なる天候のあいさつだと思っている。不愛想な会話と思う人もいたかもしれないがさほど礼を失した対応だったとは思っていない。ただ、仕事をしている中でねん出した少ない勉強時間を不毛な会話に削られることだけが嫌だった。
 
中には長年の(本当に長かったかどうかは知らないのでこれは推定)受験勉強で多少勘違いをしているような人にも出会った。私より年配の女性で、同じ相続税法を勉強していたようで、時々授業で同じ教室内にいた人だった。彼女の机の上はいつも資料が散乱していて、お世辞にも物の整理が上手な人だとは思えなかった。授業中でも何か忘れ物などに気が付くと周りの人にすみませんと声掛けをすることもなくいきなり狭い座席から立ち上がって狭い通路を動き出す。あからさまに嫌な顔をしている人もいた。だから、彼女のそばには座らないのだと明言している人もいた。
 
その女性があるとき私に声をかけてきた。それまで、顔は見知っていたのだがこんにちは等のあいさつぐらいしか交わしたことはなかった。あの、少しお時間いいですか?物腰は柔らかく明るい笑顔だったので、なんでしょうか、と会話に応じたのが間違いだった。
 
最初に聞いてきたのは、その日より少し前の日付に、私たち夫婦はどこで何をしていたのか、ということだった。なぜそんなことを聞くのかが理解できなくて、いったい何を聞きたいのでしょうか、と聞き返す。
 
どうも、彼女が問題にしたその日に、外出先から帰宅したら、自室にあるべきものがなくなっていたのだという話のようだった。で、なんで私たちのその日の「アリバイ」が必要なんだろう?疑問符のほうが多くなっていく。そして空き教室で二人きりで話したいという要求に応じたことを少し反省し始める。平成5年12月、その年の結果発表が近づいていた。