戦場の実相
戦場とはどういうものか、当時の日本軍と中国軍(蒋介石率いる現台湾の国民党政権。現在の中国は毛沢東率いる中国共産党政権です。)の実態はどういうものであったかという事について少しお話しましょう。
中国軍の実態について申しますと、まず第一に、兵隊の素質が非常に悪い。
日本の兵隊と全く異なる点ですが、中国には昔から「良民不当兵」(良民は兵士にならない)という諺(ことわざ)があります。
日本軍が虐殺したと言いますが、まず虐殺をやったのは中国兵なのです。
その実例を申しますと、私が上海付近に上陸後、ほとんど連日は戦闘、引き続き追撃と敵と戦いながら南京へと迫って行きました。
従って私の前には日本軍は全くいないという状態で戦闘を続けていました。
ところが私がある部落、あるいは町を占領するというと、そこが既に破壊をされており略奪をされており、焼き払われているどころか、甚
はなはだしきは住民が惨殺されているのです。
なぜそういう事が起きるかと言うと、逃げる中国兵が略奪を働き、それを防ごうとした住民が中国兵に殺されているのです。
中国兵は退却する時には「清野空室」と言って、焼き払い、略奪しつくして、追撃する敵軍に利用させまいとする、そんな残虐なことを平気でやっているのです。
昭和の始めに、「南京事件」「済南事件」というものが起こっています。
これは(蒋介石率いる)国民革命軍が北伐をした時に内乱が起こり、在留の日本人や外国人が虐殺された事件です。
また昭和12(1937)年7月29日に北京東南の通州というところで起きた「通州事件」があります。
380名いた日本人が、中国の保安隊に260名惨殺された事件です。
あるいは、また上海では、大山中尉が水兵と共に殺されていますが、これも惨殺です。
さらに私が直接見たものですが、ある部落に宿営するため設営(宿舎の準備)の兵が自転車で部隊よりも先行して、部落の入り口の門が閉まっていたので、その兵士が「開門(カイメン)、開門」と叩きますと、門の上から手榴弾が投げられて負傷してしまいました。
一緒に行った兵士はあわてて帰り、我々がその部落を攻撃して占領し、負傷した兵士を探しますと、門を開けて引きずり込まれたものか、首を斬り落とされていました。
一緒に行った兵士は、その首を抱いて体にくっつけて、泣き叫んでいました。
これが私が現実に見た、中国人の残虐性を現す光景であります。
中国軍には昔から「督戦隊」というのがあって、後ろから味方の軍に鉄砲を撃って第1線を督励(とくれい)する、そういう事が行われていました。
実際に、南京の城外警備軍の87師、88師が総崩れになって城内に殺到するのを、城内警備の37師が味方に向かって発砲して督励しています。
また南京陥落の前、12月6日には南京城門は全部内側から閉鎖され、城外陣地の守備兵は後退の道を断たれ、城外の部落において略奪暴行を行っております。
このように、敗走する中国兵が自国の戦友や住民に暴虐を働いた例を見ても、その素質は劣悪であり、その性質は残虐であることは明白であります。
次に、高級指揮官がさっさと逃げている事です。
蒋介石は宋美齢を伴い、12月7日飛行機で漢口に脱出し、それに軍政部長に何応欽、総参謀長の白崇禧等も同行しています。
南京の守備総司令官であった唐生智は、12月12日に部下を放置して揚子江対岸に逃げております。
こんなことですから、総兵力6万5千~7万は指揮官を失って暴徒と化したわけです。
これが中国軍の実態なのです。
これに比べて、日本の軍隊はどうかと言うと、まず、第一に国民の支援があり、兵士は郷土の名誉を担(にな)い、国家に対する忠誠心と自己の使命感を持っておりました。
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上差し一部抜粋させて頂きました。
全部目を通させて頂きましたが、裁判とかも嘘の証言を取り上げて行われた酷いものですね!
それとこれを読めば南京大虐殺は、デッチアゲだったというのがよく解りますね。
それでこの方の言っている戦争の実相ですが、下記に記載する手記がよく物語っています。
*****以上 抜粋