人生の旨みというものは、いかにじぶんを縛り付けるものから解放し、人生を享受することにあるのではないか。少なくとも、私はそう思っている。


 私の場合、親からの影響か、「神への畏敬」の念が、幼少の頃から非常に強かった。 

「悪いことをすれば、神様は見ている。」とか、「神様は、しゃべらなくても、思っていることは全部お見通しだよ」とか。何かにつけて、脅し文句のように言われてきた。 


・・・父も会社に行く前、必ずテレビの上に置かれた神棚に頭を垂れて拝み倒していた。まるで、その木でできた扉の向こうには階段があって、霊界にでも繋がっているのか、と思わせんばかりに。 


 私が小学四年生の頃か。ふとした時、心の中では、ずっと「神様は天才よりももっと上。そんなん当たり前。」「神様をアホといった奴がアホ。そんなん当たり前。」と、なかなかにリズムを付けて、呟いていた時期もあった。 だからそれだけ、子供の頃から神様に対する強迫観念は強かった。 


 祖母や父は、いたく、いわゆるスピリチュアルカウンセラーに傾倒していた。特に父の系統の仕方は尋常ではなく、「あの人がそう言ってるんだから、お前の未来はそうなる。」とまで言い放つほどである。

しかもカウンセリング料金は一回につき三万円以上はしたのだとか。

 母も「神様は見ているよ。」と事あるごとに「神様」を主語に出すことがあったから、まるで私の人生は、振り返ってみると、誰かにピアノ線で操られているのではないか、といった感覚であった。


 昔から、絵を描いたり、好きな音楽を延々と聴いていた、不思議な子ではあった。でもその後ろには、いつも「神様」であったり、御先祖様の、死の影もそこにはあった・・・

だから(深層は)自由を嘱望する自分だったが、自由にはなりきれなかった。そんな小学生時代。 


 思春期になると、自分の中では、さらに自由と制約とがせめぎ合っていた。 

その上、高校・大学進学への「受験」という要素まで覆い被さってくる。元々はお勉強など好きな子ではなかった。 

お友達が宿題や塾で勉強している頃でも、NHKの番組やアニメを見たり絵を描いたり過ごし、気まぐれで日記の宿題に、少しずつ手を付ける子だった。


 小学生の頃から見れば、その上から、統制社会のように感じられた、厳しい中学生活が始まるのだ。

つまり、神様が存在する(と思われる)「霊界」、好き勝手したい「自分界」、受験勉強や厳しい学校の「現実界(社会)」が存在したのである。

 まぁでも「現実界(社会)」に関しては、お勉強に関しては、テストでいい点を取れば内申点への強迫観念などを後ろめたく思わなくてもいいし、お小遣いも増えたので、やがて頑張るようにはなった。

 その上、「神様への強迫観念」のことも一旦は置いておけるので、一石二鳥であった。

お勉強をすることで「良い子」へと擬態した。


それでも、じめじめと自分の世界に閉じこもりがちで、唯一無二の理解者とも出会えない自分は浮いていたので、中学生活が終わる頃には、高校生活へと、淡い青写真を描いていた。 



 高校時代が始まると、美術部に入って、素敵な創作活動を・・・と思っていたのだが、思っていたものとは違い、「これだったら、帰宅部で好きなことしとこう。」と思い至り、また自分界への引きこもりライフが始まるのである。

 友人はいたけれど、自分の求める領域にいてた人はいなかったので、友人には必要以上には期待しなかった。

・・・まぁ、この件に関しては、本題とは少し逸れるので、また他の件で触れることにする。 



 そんな自分界と受験界との狭間で悶々悶々とした高校時代、一旦は置いておいた「神様への強迫観念」、というか人生への疑念が噴出し、勉強も手につかなくなる時期が存在した。 


一つは母が病気で入院したこと、もう一つは祖父の死である。 


・・・なんだよ、お前のことじゃないのかよ、なのだが、母が病気で2週間ほど入院したことが、余りにも理不尽で、なぜだか、自分を責めたのだ。
さらには父は、病院へ行き、母の看病はしたものの、ふとしたところで、「罰が当たった」などと言い放ったらしい。

その言葉は母はもちろん、自分も父親を恨み続ける大きな要因の一つとなった。 


 そこから、「自分も病気になるのではないか。」という恐怖に祟られ、勉強が手につかなくなった。しかも猛暑からの季節の変わり目で、毎日ふらふらするようになった。そんな矢先に、母の入院。心身衰弱していて、自律神経失調症になった。 


 だから自分も癌なのではないか、とか、ふらふらするから、変な病気なのではないか・・・と強迫観念にしばらく付き纏われた。


 その上、死への恐怖。まあ、この頃は「神様は天才・・・」云々は思わなかったが、神様という「観念」は、自分にとっては、厳かなものに映っていた。


 翌年、祖父が亡くなった。病気で身体の自由が利かなかったので祖母と一緒に我が家に来ることになり、母の入院の最中にも、家にずっと過ごしていた。
それほどまでに、身近な人間の死。自分の死への漠然とした恐怖が、本格的にクローズアップされるようになった。 


 最もショックだったのは、葬儀後、出棺されて、火葬場で骨だけにされて、それを箸で取り、骨壺に納めること。その際、祖母が「あれだけぶくぶくしてて大きかったのに、こんな骨になって・・・」と呟いていたことは当時の情景そのものだ。

 ほんとうに、眼の前にはいくばかりかの骨と、もはや身体の一部と化していた眼鏡のフレームだけがそこにぽつんと置かれていた。


 自分もああなるのか・・・もうすぐかもしれない。そういう恐怖が、ずっと付き纏っていた。 


そういう時に、自分にとっての神様という存在が、さらなる厳格なものに映ったので、余計にプレッシャーとなった。 


まあ、この頃ともなると「神様」という存在も存在するのかしないのかは分からず、絶対的なものという考えからも一歩引いていたので、囚われてはいなかったものの、「神様」という存在は、今まで教えられてきた経験に照らし合わせてみれば、重い存在のように感じられた。 

 それは「霊界」にしてもそうだった。本当に存在するかどうかは分からない。


しかし、「死」は絶対的に存在している。その過酷な現実を突きつけられたのだった。
その「死」に近い存在たる「霊界」やら「神仏」思想は、自分には重たく、しんどい存在であったということはここで強調したい。 



 ・・・大学生になると、まずはそんな自分の重荷を軽くしたかった。その上で、やれ、大学生活を満喫するなり、心の深い部分で繋がれる友人と出会いたい。 


 まず、長年苦しめてきた、厳格な「神様」について。
大学で、キリスト教のことを学ぶ機会があった。すると、キリストの教えとしては、「神は恵みを御与えになる。」という考えが、いたく衝撃的だった。
そんな考え方も存在するのかと。

事あるごとに、ずっと「罰が当たる。」などと言われてきた私は、なぜ、そうやって自分から鎖を足にはめ続けるのだろう、と疑問に思うのだった。
しかし入信はしていない。


このことを契機に、もっと、たくさんの思想に、考え方に触れ、あらゆる自分を蝕む規制を、制約を取っ払おう、と思うようになった。 


「死」への強迫観念に関しては、今なお克服できてはいない。しかし中島義道氏の哲学書だったりを通して、「死」について、心の深い部分で語り合うことができる人物は、やはり存在するのかと思うと心が(以前よりは)すっきりして、哲学に触れながら人生を構築することの「旨み」に気が付くことまでできた。


 苦しかった思春期も、これで清算できてチャラになった・・・とまでは言えない。

それでも、自分に纏わりつく足枷を解放さえできれば、普通に生きていれば、まず気が付くことのできない人生の「旨み」を味わうことができる。 


「向こう側の世界」は、どんなフェーズにも、確実に存在しているのだ。