敷かれたレール

実家の工場で機械の前に立ち、作業をする私を見て、母がふと嬉しそうな顔をした。

私が実家の会社を継ぐと言ったときから、母はずっとこんな顔をしている。

その顔が見たくて帰ってきたはずなのに、作業の手を止めて、私は思った。

――私、何をしているんだろう。

実家の会社は、思っていたよりずっと規模が大きかった。継ぐとなれば、ひとりで経営していくには大きすぎた。

母の喜ぶ顔が嬉しかったのは、最初のほんの少しの間だけだった。

そう思ったとき、初めて気がついた。

生まれてから今日まで、自分の意志で決めたことが、いったいどれだけあっただろう。

生まれ育ったのはこの町だった。地域の学校に上がったのも、大学に進んだのも、周りがそうしていたからだった。

大学を出て中学校の家庭科教員になりたかったが、就職氷河期にぶつかり、なれなかった。

親のすすめで、地元の中学校の指導補助員を一年つとめた。

そこで、堂々と子どもたちの前に立つ教員たちを見て、自分には自信を持って教えられるものが何もないと気づいた。

それで、興味のあった栄養学を学ぶため、石川県の専門学校へ進んだ。

これは自分で選んだ。

そのときは、そう思っていた。

専門学校では、自分に自信をつけたくて、一番になろうと決めた。

個別指導塾とジャズバーのアルバイトをかけもちしながら、早起きして勉強した。

あれほど授業に行くことすら億劫だった大学生の頃とは、まるで別人だった。

けれど二年目の春、急にやる気が起きなくなった日があった。

おかしいなと思い、図書館でたくさんの本を借りて読んだ。

その中に、池田晶子さんの哲学の本があった。

幸せとは何だろう。

難民や飢餓で苦しんでいる人がいる限り、私は幸せになれないのではないか。

そんなことを考えるようになり、それが苦しくてたまらなくなった。

ある日、犀川のほとりを、自分も川の流れになったつもりで歩いた。

帰ろうと土手を上がったところに、赤子地蔵堂があった。

静かな心のまま、手を合わせた。

――どこに、赤子の魂はあるんだろう。

そう思った瞬間、

「ここだよ」

と、自分の心の声がはっきりと響いた。

ずっと探していた何かが、ようやく見つかったような大きな喜びだった。

難民や飢餓に苦しむ人たちの幸せを祈る心が、確かにここにある。

私は幸せなのだ。

そのとき、初めてそう思えた。

それ以来、私は心の声に耳をすますようになった。

学校を辞めたいと思ったときにも、心の声は答えてくれた。

――頑張らなくてもいいんだよ。でも、力を抜いて、続けたらいいんだよ。

その声に従い、最後まで学校に通って主席で卒業した。

卒業後もしばらくアルバイトを続けながら、ただ静かに生きていることの幸せを味わっていた。

そんなある日、

次は親を喜ばせなくちゃ。

そう思った。

そして、実家を継ぐために帰ってきたのだった。

――それが今、工場の作業場に立って、

「私、何をしているんだろう」

と立ち尽くしている、この瞬間につながっている。

心の声に目覚めたはずだった。

それなのに、一番大きな決断をするときには、心の声ではなく、ずっと昔からの「親を喜ばせなくちゃ」という思いに従っていた。

これはいったい何なんだ。

もやもやしたまま実家の手伝いを続けていたある日、テレビが福知山線の脱線事故を報じた。

ニュースを見ていると、ふいに自分の心の声が大きく響いた。

――敷かれたレールしか、走れなかったんだ。

それが自分自身のことだと、すぐに分かった。

本当に自分の意志で物事を決める生き方がしたい。

誰も知らない町で、一から生きてみたい。

母に反対されるのが怖くて、面と向かって伝える自信もなかった私は、手紙だけを置いて家を飛び出した。

それから四年間、私は沖縄と海外で生きた。

那覇、波照間島、石垣島。

住まいも仕事も転々とし、石垣島を拠点に台湾やタイ、バリ島へも旅をした。

自分の意志だけで生きたいと願って、飛び出したはずだった。

けれど実際には、行く先々でたくさんの人の優しさに支えられていた。

仕事場が変わってからも食事やドライブに連れて行ってくれた人。

故郷の家族に会わせ、観光に連れて行ってくれた人。

台湾でお金が底をついたとき、電話一本で遠くから駆けつけ、ダウンコートまで買ってくれた人。

一人で決めて、一人で生きてきたつもりだった。

けれどそれは、たくさんの人の手によって、かろうじて成り立っていた自由だった。

そんな私が、石垣島で初めて「欲しい」と思ったものがあった。

好きになった人だった。

友達として、ただ一緒にいられるだけでよかった。

けれどある日、持病の発作で倒れ、そのまま眠る彼の寝顔を見ていたら、なぜか彼が死んでしまうような気がして、涙がこぼれた。

私が、彼を助けたい。

そのために家を借りた。

何もいらないと思っていた私が、初めて具体的な望みを持った瞬間だった。

海辺のアパートで三年を過ごし、ようやく好きだと伝えられたそのとき、彼から告げられたのは、他の女性との間に子どもができ、結婚するという話だった。

絶望した。

もう石垣島にいる意味が分からなくなり、実家へ帰ろうとした。

けれど、その前に立ち寄った那覇で、何もかも手放して消えてしまいたくなった。

持っていたお金も使い果たし、最後は帰りのチケット代を送ってもらって、実家に帰った。

自分の意志で生きたいと願った四年間の果てに、結局また、親に頼ることになった。

今なら分かる。

あのとき「敷かれたレールしか走れなかった」と思った、そのレールは、ただの束縛ではなかった。

それは、子どもを心配する親の想いであり、愛でもあった。

そして、レールから逃げ出して手に入れたつもりの自由もまた、一人では歩けなかった。

行く先々で出会った人たちの優しさという、また別の形の支えの上に、私は立っていた。

自分の意志で決めた道など、もしかしたら、どこにもないのかもしれない。

敷かれたレールの上にも、レールの外にも、誰かの想いがある。

大切なのは、自分がどの道を選んだかだけではなく、そこにある誰かの想いに気づけるかどうかなのかもしれない。

実家に戻ってから、私は栄養士として働いている。

専門学校を主席で卒業しながら、長く役立てることのなかった資格を、ようやく使えている。

それが嬉しい一方で、もっと若いうちからキャリアを積んでおきたかった、とも思う。

そんな私に、看護学校に通う姪が言った。

「たくさん旅をしたいから、看護師にはなりたくない」

何とアドバイスすればいいのか。

私は今も、迷っている。