コメント返信せず申し訳ないです。
ここで失礼します。お気遣い
本当に有難うございますm(_ _)mm(_ _)mm(_ _)mm(_ _)mm(_ _)m
黒猫ぱんさん、vivianさん、kinako姉さん、ナガホさん、chiitoさん、rika姉さん、ビスさん、有難う。
こんなブログでも見てくれてる有り難き感謝。
ついついブログを書かないでいるとダラーと毎日過ぎてしまいました。
父が死んで日が浅いが、実は心は弱ってございませんのです。
憔悴しきってるかと思われてるかもしれないが、、、全くそうではございませんので。
ちょい、忙しいのよ〜〜。💦
でも今回は区切りの為に父の事を。
父親は入院生活が1年半以上になっていました。
3ヶ月で転院したりと何かと大変でした。
コロナの影響があった為面会などは一切出来なかったのは逆に良かった位なのだ💧
それでも週に2回洗濯物取りに行ったりオムツ等を届けたり本当に大変だった。
7年前に地元から札幌に引っ越しさせて、弟(障害あり)と2人暮らしして、隣には、マネジャー家族も引っ越ししてもらい(マネは私の妹)何かと面倒見てもらっていた。2年位たった頃、認知症、大腸癌を発症。そして、施設へ。施設生活は3年程。まだ認知も浅く普通に歩け元気に一人で生活出来ていた。
病院へは月1回ペースで連れて行っていた。
そして、
大腸癌がピークを向かえた笑
本人ついに手術を決意。だが、これが遅すぎたのだ。人工肛門の手術を終えた直後に圧迫骨折をし、脳梗塞、糖尿、心臓、認知症あらゆる病気が次々と悪化し、あっとゆう間に車椅子に。
歩けなくなった情けない姿。
担当医との面談の際に少し様子を見れる事もあったが基本面会はNGだった。
何度も危ないと言われたが、その度復活し、いつしか死に待ち状態に。
死ねない父を哀れんでさえいた。
そして、
ついに3月23日朝早くに病院から呼び出しが。
久しぶりに顔を見たが全く別人になっていた。痩せこけ、目は見開き、酸素マスクを付け、意識ゼロだとすぐにわかった。
もう、酸素マスク外してほしいと頼んだ。
無理な話しだがね。
とっくに死にたいだろうに。
2時間、3時間、、、
父死亡。79。この瞬間は私は病院の食堂でなんとご飯食べてたのだ!
まぁ、父がその時間を与えてくれたと思っておりますゎ。💧
看護師さんもとても良い人で
そう言ってくれましたわ。この後が色々大変だからお父さん時間作ってくれたんですよ。とね。
私は父が嫌いだった。憎んでさえいた。
とにかく頑固じじいで暴力振るう父親だった。
それを止める事を躊躇する母親も嫌いだった。
15で家を出たのは一番は家族から逃れたかったのだ。
母は59でこの世を去っている。突然死だった。20年前である。私はあと3年で母の死んだ歳になる。
我慢我慢の人生だった母。
両親がいなくなり寂しくなるね。と
聞かれれば、、
はっきり言って何も。なのだ。
実に冷たい人間なのだと自分でつくづく思うが、何もなのだ。
子供の頃からずっと反抗期が続いていた為、何十年たっても親子の修復は難しかった。
それでも1つ言える事は父母がいたから私は生をうける事が出来たのだという事実。
仏の顔になった父を見て
恨みは消えたよ。この人も自分の人生精一杯生きたんだな。とね。
私の人生の中で父と向き合ったのはこのほんの数年。しかも認知を発症してからの。
だからよけいに何でも言えた。殴ってやりたいとも何度も言った。昔やられたようにね。
言いたい事はこの数年で全部言えたから私は何も心残りはない。
酷い親と酷い娘だ。笑
15で家を捨てた私のささやかな罪滅ぼしとして。
父に、そして母に捧げる。
お疲れ様。