知の内面化(内超化)を図式化するとわかりやすい
先に以下を記したが、今、簡単に知の内面化を図式化する。
A: 現象外面・表面:マクロ様態:可視界
ーーーーーーーー↑↓↑↓ーーーーーーーーーー
B: 内面、内界、ミクロ様態:不可視界
(注:↓↑は、境界における交流である。これは、陰陽ガウス平面では、MPにおいて、存する。人間では、氣的感覚、頭と肚の交流としての胸・ココロである。ただし、これを形成するのは、容易ではない。しかし、自然体験、芸術体験、宗教体験等では生起するだろう。)
視覚するのは、Aの世界である。しかし、20世紀初頭から始まる知の内面化革命とは、Bの世界の探求である。
Bの世界は不可視の世界であり、可視の世界の法則が成り立たないのである。
シュレディンガーの古典的名著の『生命とは何か』では、生命は負のエントロピーを食べていると機智的に述べられている。
後で詳述したい。
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自然科学や技術、そして、哲学や芸術は前世紀初期から内面化したのではないだろうか。
自然科学では、量子力学、そして、技術的に原子力、哲学は、現象学(フッサールとハイデッガー)、芸術では、特に文学では、意識の流れを追うモダニズム小説(ジョイス、プルースト、ヴァージニア・ウルフ)。
つまり、現象の本質、本体、核を追求する「知」が見られる。
科学・技術では、ミクロの世界の探求であるが、これは、現象の広義の内面・内界の追求と言っていいだろう。
そして、ポスト・モダンな量子の世界を見つけたのである。
言い換えると、不可視の世界の知である。
これは、美術というより、音楽の世界に通じるのである。(追記:これはニーチェのタームでは、アポロよりディオニュソスということになる。もっとも、ニーチェのアポロはディオニュソスをベースにしたものであるが。思うに、ディオニュソスとは氣と言えると思う。)
ところで、日本人は視覚に傾斜していると言えよう。
そして、この知の内面化の動きに対しては、鈍感であったと言えよう。ミクロ化、内面化する知の可視的結果に傾斜したと言えよう。
その帰結が原発群である。放射能は物質のミクロ、内面に関係するのであるが、視覚傾斜の日本人には、盲点であったと言えるのではないだろうか。
今は問題点指摘に留める。
追記:現象の内面・内界化の知の動きには、当然、「オカルト」が入る。これは、私は内超学と呼ぶ。そう、宗教・神話の比較論的革命があった。
これも、宗教・神話の内面化と言えよう。
追記2:ポピュラー音楽であるが、これも、実は、音楽の内面化ではないだろうか。クラシック音楽は、当然、内面性をもつものの、形式原理に阻害されて、音楽のより内面化へ進展できなかったのではないだろうか。
ならば、ポップスも知の内面化に入れないといけない。ところで、私のいう知はインテレクトではなく、インテリジェンス(情報とも訳される)である。そう、音楽は情の知であろう。
追記3:心理学は深層心理学、無意識心理学となった。フロイトの精神分析学、そして、ユング心理学。
追記4:社会科学ではマックス・ウェーバーの理念型社会科学があるだろう。
追記5:思うに、経済学で、内面化したものはあるのだろうか。
そう、経済の内面化がなかったため、人類世界は混乱したと言えそうである。
シュタイナーの経済論はある。とても難解である。
追記6:芸術、とりわけ、美術の混乱は、この内面化を深く受け止めていないことから来ているのではないだろうか。
確かに、眼は外界に向っているのであり、内界への眼は肉眼の眼ではなく、ココロの眼、胸の眼、中丹田の眼だろう。
追記7:構造主義も知の内面化に入るだろう。
現象内部に(正しくは、内在超越的に)存する構造、これは、不可視の知である。
流行したポスト・モダンやポスト構造主義であるが、これは、現象学や構造主義の一種の応用というか「変奏」、展開であろう。あるいは、「翻訳」であろう。(デリダやドゥルーズの哲学は、少し進展しているかもしれない。追記:進展はあったと見るべきである。ポスト構造主義とは静態的な構造主義に動態力学を導入したのであり、デリダの脱構築主義はドゥルーズの差異哲学より、周到である。しかし、差異と差延は視点が違う。しかし、陰陽哲理学から観ると、差異は陰であり、差延は陽に対する陰存在ということで、共通となるだろう。問題はドゥルーズ哲学は、差異を連続的に捉えたことである。思うに、不連続的差異論とは、ドゥルーズ哲学をデリダ哲学的に進展させたものと観ることができる。)
私の陰陽哲理学から観ると、現象学や構造主義は、現代的陰陽論である。ただし、陰陽論が明確に認識されていないので、晦渋になっているのである。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-12058650873.html
A: 現象外面・表面:マクロ様態:可視界
ーーーーーーーー↑↓↑↓ーーーーーーーーーー
B: 内面、内界、ミクロ様態:不可視界
(注:↓↑は、境界における交流である。これは、陰陽ガウス平面では、MPにおいて、存する。人間では、氣的感覚、頭と肚の交流としての胸・ココロである。ただし、これを形成するのは、容易ではない。しかし、自然体験、芸術体験、宗教体験等では生起するだろう。)
視覚するのは、Aの世界である。しかし、20世紀初頭から始まる知の内面化革命とは、Bの世界の探求である。
Bの世界は不可視の世界であり、可視の世界の法則が成り立たないのである。
シュレディンガーの古典的名著の『生命とは何か』では、生命は負のエントロピーを食べていると機智的に述べられている。
- 生命とは何か―物理的にみた生細胞 (岩波文庫)/岩波書店
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後で詳述したい。
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科学・技術や哲学・芸術の「内面」化:日本人の視覚優位と劣化
後で検討したいので、今は一言。自然科学や技術、そして、哲学や芸術は前世紀初期から内面化したのではないだろうか。
自然科学では、量子力学、そして、技術的に原子力、哲学は、現象学(フッサールとハイデッガー)、芸術では、特に文学では、意識の流れを追うモダニズム小説(ジョイス、プルースト、ヴァージニア・ウルフ)。
つまり、現象の本質、本体、核を追求する「知」が見られる。
科学・技術では、ミクロの世界の探求であるが、これは、現象の広義の内面・内界の追求と言っていいだろう。
そして、ポスト・モダンな量子の世界を見つけたのである。
言い換えると、不可視の世界の知である。
これは、美術というより、音楽の世界に通じるのである。(追記:これはニーチェのタームでは、アポロよりディオニュソスということになる。もっとも、ニーチェのアポロはディオニュソスをベースにしたものであるが。思うに、ディオニュソスとは氣と言えると思う。)
ところで、日本人は視覚に傾斜していると言えよう。
そして、この知の内面化の動きに対しては、鈍感であったと言えよう。ミクロ化、内面化する知の可視的結果に傾斜したと言えよう。
その帰結が原発群である。放射能は物質のミクロ、内面に関係するのであるが、視覚傾斜の日本人には、盲点であったと言えるのではないだろうか。
今は問題点指摘に留める。
追記:現象の内面・内界化の知の動きには、当然、「オカルト」が入る。これは、私は内超学と呼ぶ。そう、宗教・神話の比較論的革命があった。
これも、宗教・神話の内面化と言えよう。
追記2:ポピュラー音楽であるが、これも、実は、音楽の内面化ではないだろうか。クラシック音楽は、当然、内面性をもつものの、形式原理に阻害されて、音楽のより内面化へ進展できなかったのではないだろうか。
ならば、ポップスも知の内面化に入れないといけない。ところで、私のいう知はインテレクトではなく、インテリジェンス(情報とも訳される)である。そう、音楽は情の知であろう。
追記3:心理学は深層心理学、無意識心理学となった。フロイトの精神分析学、そして、ユング心理学。
追記4:社会科学ではマックス・ウェーバーの理念型社会科学があるだろう。
追記5:思うに、経済学で、内面化したものはあるのだろうか。
そう、経済の内面化がなかったため、人類世界は混乱したと言えそうである。
シュタイナーの経済論はある。とても難解である。
- シュタイナー経済学講座 国民経済から世界経済へ (ちくま学芸文庫)/筑摩書房
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追記6:芸術、とりわけ、美術の混乱は、この内面化を深く受け止めていないことから来ているのではないだろうか。
確かに、眼は外界に向っているのであり、内界への眼は肉眼の眼ではなく、ココロの眼、胸の眼、中丹田の眼だろう。
追記7:構造主義も知の内面化に入るだろう。
現象内部に(正しくは、内在超越的に)存する構造、これは、不可視の知である。
流行したポスト・モダンやポスト構造主義であるが、これは、現象学や構造主義の一種の応用というか「変奏」、展開であろう。あるいは、「翻訳」であろう。(デリダやドゥルーズの哲学は、少し進展しているかもしれない。追記:進展はあったと見るべきである。ポスト構造主義とは静態的な構造主義に動態力学を導入したのであり、デリダの脱構築主義はドゥルーズの差異哲学より、周到である。しかし、差異と差延は視点が違う。しかし、陰陽哲理学から観ると、差異は陰であり、差延は陽に対する陰存在ということで、共通となるだろう。問題はドゥルーズ哲学は、差異を連続的に捉えたことである。思うに、不連続的差異論とは、ドゥルーズ哲学をデリダ哲学的に進展させたものと観ることができる。)
私の陰陽哲理学から観ると、現象学や構造主義は、現代的陰陽論である。ただし、陰陽論が明確に認識されていないので、晦渋になっているのである。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-12058650873.html