視覚とこころ:肚を錬成し、自我と肚のバランスを形成して、こころ・視覚・光を新生させ、大自己となる
本テーマについて何回か既述したが、あらためて検討したい。
視覚と自我が結びついていると見る。問題は、視覚とこころの関りである。
陰陽哲理学(氣哲理学)から見ると、視覚は凸i陽と結びついていることになる。
以前、海舌氏が、人間認識図で、凸iを光ととっていたが、それは正しいのかもしれない。
海舌氏による人間認識図
氣哲理学では、光は+1においてあるのであり、凸iを光とすると齟齬になる。この点をどう整理するのかである。
氣の領域
凸i陽(頭脳)
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自
我
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-1地_____MP・こころ_____+1天 量子領域
(重力) | (光)
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感
性
体
|
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凹i陰(肚)
変形応用陰陽ガウス平面
(尚、MPはMedia Pointであり、原点・交点・次元転換点等であり、太極・太一、そして、霊である。)
ここで作業仮説、思考実験であるが、陽凸iを光ではなく、原光としたらどうだろうか。そうならば、陰凹iは闇ではなく、原闇である。
そして、原光と原闇が共鳴して、光が生まれると見るのである。(勿論、原光が主導だと重力が生まれるのであるが。)
では、原光(凸i陽)と視覚ないし自我はどう関係するのだろうか。
氣哲理学から言えば、当然、直結していることになるが、そのメカニズムはいかに?
まず、視覚、光を感覚するとはどういうことなのか。
いったい視覚器官のメカニズムは何か。
直観で言えば、光の根源は原点MP(Media Point)、中心点にある。だから、そこに視覚器官があるのではないだろうか。
つまり、視覚は陽凸iないし原光にあるのではなく、原点MPに存するということになる。
ならば、それは、こころと一致することになるのである。
視覚器官=こころということになる。
そうすると、私の上記したことやこれまでの考えが破綻するのである。私は視覚は自我と直結すると見てきたからである。
この新たな視点から考えてみたい。
では、なぜ、視覚と自我が結びつくと考えたのだろうか。それは経験的な判断からである。
確かに、視覚と頭脳は結びつくのである。頭脳は自我と関係するのである。だから、結びつけたのである。
とまれ、自我は凸i、陽、原光の主導的能力と言えよう。
では、自我とこころの関係は、自我がこころを否定、抑圧、排除、隠蔽するというものである。
つまり、自我形式とは自己同一性主義(簡単に同一性)なのであり、他者性をもつこころを同一性で支配するのである。つまり、自我は、こころの領域をいわば隷属させるのである。
しかし、基本的には原初的こころが存在するのである。
そう、こころに視覚があるならば、当然、自我はこころ・視覚に通じていないといけない。
少し見方を変えると、陽と陰の調和共振でこころ=視覚が生まれるが、そのとき陽が強化された場合、つまり、自我が形成されるとき、こころ=視覚はその影響を受けて、いわば、不透明化するのではないだろうか。
つまり、こころ=視覚=光は、陽化、原光化するということではないだろうか。思うに、この陽化ないし原光化したこころ=視覚=光とは、物質的光ではないだろうか。氣的背景を喪失した光ではないだろうか。
それは当然、自我の物質主義に相応する光と言えよう。
私が自我と視覚が結びつくと見たのは、この点を意味しているのだろう。
ならば、こころ=本来の視覚(本視覚)=本来の光(本光)を取り戻すには、どうしたらいいのだろうか。
近代は自我主導的であるので、それは難しいのである。
自我を失わずに、こころ・本視覚・本光を新生させるにはどうしたらいいのか。
簡単に言えば、やはり、肚を作ること、錬成することである。
陽凸i、原光が主導的であるのに対して、陰凹i、原闇を強化しバランス・均衡をとることが大事である。
つまり、主導的な陽凸i=原光に対して、能動的に陰凹i=原闇(肚)を形成する必要があるということになるのである。
それによって、自我と均衡する肚が形成されるのであり、新しい陰陽調和が形成されると考えられる。
そう、これは、原初のこころ=視覚=光ではなく、生まれ変わったこころ=視覚=光である。
正に、開眼である。
この新しい自己はいわば、大自己である。それまでは、自我的自己に過ぎなかったが、自我を包摂した大いなる自己なのである。ここには、他者との共生感(仁倫)があるのである。
今はここで留めたい。
追記:私見では、シュタイナーの説く悪魔アーリマンは陽凸i、原光であり、悪魔ルシファーは陰凹i、原闇であり、キリストは両者の均衡調和である。それは、こころである。
追記2:こころ=視覚=光と上述したが、気哲理学の「座標」とは齟齬となる。
後者では光は+1である。しかるに、上記では、原点MPが光となる。
この矛盾をどう解決するのか。
原点MPにおいて、陰陽共振調和が為されると光が発生する。だから、原点MPから+1の領域が光と言うことができよう。
つまり、つまり、MP⇒+1の総体が光であり、+1はあえて言えば、天である。もっとも、天は光の総体の終点と見られる。
今はここで留める。
視覚と自我が結びついていると見る。問題は、視覚とこころの関りである。
陰陽哲理学(氣哲理学)から見ると、視覚は凸i陽と結びついていることになる。
以前、海舌氏が、人間認識図で、凸iを光ととっていたが、それは正しいのかもしれない。
海舌氏による人間認識図
氣哲理学では、光は+1においてあるのであり、凸iを光とすると齟齬になる。この点をどう整理するのかである。
氣の領域
凸i陽(頭脳)
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自
我
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-1地_____MP・こころ_____+1天 量子領域
(重力) | (光)
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感
性
体
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凹i陰(肚)
変形応用陰陽ガウス平面
(尚、MPはMedia Pointであり、原点・交点・次元転換点等であり、太極・太一、そして、霊である。)
ここで作業仮説、思考実験であるが、陽凸iを光ではなく、原光としたらどうだろうか。そうならば、陰凹iは闇ではなく、原闇である。
そして、原光と原闇が共鳴して、光が生まれると見るのである。(勿論、原光が主導だと重力が生まれるのであるが。)
では、原光(凸i陽)と視覚ないし自我はどう関係するのだろうか。
氣哲理学から言えば、当然、直結していることになるが、そのメカニズムはいかに?
まず、視覚、光を感覚するとはどういうことなのか。
いったい視覚器官のメカニズムは何か。
直観で言えば、光の根源は原点MP(Media Point)、中心点にある。だから、そこに視覚器官があるのではないだろうか。
つまり、視覚は陽凸iないし原光にあるのではなく、原点MPに存するということになる。
ならば、それは、こころと一致することになるのである。
視覚器官=こころということになる。
そうすると、私の上記したことやこれまでの考えが破綻するのである。私は視覚は自我と直結すると見てきたからである。
この新たな視点から考えてみたい。
では、なぜ、視覚と自我が結びつくと考えたのだろうか。それは経験的な判断からである。
確かに、視覚と頭脳は結びつくのである。頭脳は自我と関係するのである。だから、結びつけたのである。
とまれ、自我は凸i、陽、原光の主導的能力と言えよう。
では、自我とこころの関係は、自我がこころを否定、抑圧、排除、隠蔽するというものである。
つまり、自我形式とは自己同一性主義(簡単に同一性)なのであり、他者性をもつこころを同一性で支配するのである。つまり、自我は、こころの領域をいわば隷属させるのである。
しかし、基本的には原初的こころが存在するのである。
そう、こころに視覚があるならば、当然、自我はこころ・視覚に通じていないといけない。
少し見方を変えると、陽と陰の調和共振でこころ=視覚が生まれるが、そのとき陽が強化された場合、つまり、自我が形成されるとき、こころ=視覚はその影響を受けて、いわば、不透明化するのではないだろうか。
つまり、こころ=視覚=光は、陽化、原光化するということではないだろうか。思うに、この陽化ないし原光化したこころ=視覚=光とは、物質的光ではないだろうか。氣的背景を喪失した光ではないだろうか。
それは当然、自我の物質主義に相応する光と言えよう。
私が自我と視覚が結びつくと見たのは、この点を意味しているのだろう。
ならば、こころ=本来の視覚(本視覚)=本来の光(本光)を取り戻すには、どうしたらいいのだろうか。
近代は自我主導的であるので、それは難しいのである。
自我を失わずに、こころ・本視覚・本光を新生させるにはどうしたらいいのか。
簡単に言えば、やはり、肚を作ること、錬成することである。
陽凸i、原光が主導的であるのに対して、陰凹i、原闇を強化しバランス・均衡をとることが大事である。
つまり、主導的な陽凸i=原光に対して、能動的に陰凹i=原闇(肚)を形成する必要があるということになるのである。
それによって、自我と均衡する肚が形成されるのであり、新しい陰陽調和が形成されると考えられる。
そう、これは、原初のこころ=視覚=光ではなく、生まれ変わったこころ=視覚=光である。
正に、開眼である。
この新しい自己はいわば、大自己である。それまでは、自我的自己に過ぎなかったが、自我を包摂した大いなる自己なのである。ここには、他者との共生感(仁倫)があるのである。
今はここで留めたい。
追記:私見では、シュタイナーの説く悪魔アーリマンは陽凸i、原光であり、悪魔ルシファーは陰凹i、原闇であり、キリストは両者の均衡調和である。それは、こころである。
追記2:こころ=視覚=光と上述したが、気哲理学の「座標」とは齟齬となる。
後者では光は+1である。しかるに、上記では、原点MPが光となる。
この矛盾をどう解決するのか。
原点MPにおいて、陰陽共振調和が為されると光が発生する。だから、原点MPから+1の領域が光と言うことができよう。
つまり、つまり、MP⇒+1の総体が光であり、+1はあえて言えば、天である。もっとも、天は光の総体の終点と見られる。
今はここで留める。