氣と太陽
後で詳論したいが、今は一言。
『海舌』氏による人間認識図(要大修正)
太陽は上図で言えば、原点(PS理論ではMP【メディア・ポイント】と呼ぶ)に位置すると思う。
それは、氣から生まれる陰陽共鳴様態だと思う。
そう、氣を2つに分ける必要があると思う。
先に、氣と生命力に分けたが、そうではなく、デュナミス(未活動態)の氣、エネルゲイア(活動態)の氣である。
詳細は置いておいて、ざっと言うと、デュナミスの氣が、陰陽共鳴によって、活動する。エネルゲイアの氣となる。これが、太陽の根源ではないかと思う。
そして、⇒-1へ行くのが、可視光ではないだろうか。そして、⇒+1へと行くのが、不可視の氣(エネルゲイアの氣)ではないだろうか。
少し説明が粗い。
イメージは、未活動(未発、已然)の氣があり、それが、分極化して、活動化する。そして、上図の原点(MP)で実軸に沿って、両方向に展開する。
陰陽調和共鳴は⇒+1へ、陽主導は⇒-1へと進展する。前者が氣のエネルゲイアであり、後者が日光だと思う。
しかし、日光は原点を介して、氣を背景にもっているのである。
そして、この氣が生命力、情報生命力と言えよう。日光は生命力、情報生命力(イデア的生命力)を内包しているのである。
とまれ、原点(MP)が太陽の位置である。陰陽両極によって成形される。
今は、ざっと述べているが、以上の考え方をすると、氣はこれまで以上に複雑になるようだ。
即ち、
1)先ず、不活動態の氣がある。それは、とりあえず、イデアの氣=イデアの陰陽と呼んでおこう。デュナミスの氣でもいい。
2)それが陰陽共鳴によって活動化する。それが、氣のエネルゲイアである。
3)⇒-1は日光、可視光であり、⇒+1は氣のエネルゲイアである。
ということになるが、明らかに、2と3は齟齬である。
氣のエネルゲイアが2つ存するのであるから。
氣のエネルゲイアを2に限定するなら、⇒+1は何なのか。
今、閃いたが、⇒-1が日光ならば、⇒+1はダーク・マター(暗黒物質)ではないのか。
精緻に言おう。⇒-1の⇒が日光で、-1を物質とする。
そして、⇒+1の⇒が不可視の光で、+1をダーク・マター(暗黒物質)とする。
D.H.ロレンスがダーク・サンと言ったが、それは、⇒+1の⇒の不可視の光ではないだろうか。
とまれ、以上のように作業仮説すると、氣とは、光を形成すると同時に、不可視の光も形成しているということになる。
とまれ、氣はデュナミスの氣とエネルゲイアの氣の2つになり、後者は、さらに、可視光と不可視光を発生すると思われる。
問題は、氣と不可視光を混同しやすいことである。
そう、-1の方向を光とするなら、+1の方向は闇である。
とまれ、氣本来、不可視であるから、氣と不可視の光は混同されやすいだろう。確かに、私が氣を感じるというときは、当然、それは、不可視の光に思えるが、それほど、単純ではない。
私が感じる氣は、氣=陰陽共鳴のように思える。つまり、原点(MP)において、⇒±1と展開する以前の様態である。
ならば、それは、デュナミスの氣ではないのか。
しかし、森の空気の中で感じる氣もそうなのだろうか。
どうも、二つの「氣」があるようだ。
混乱している。
後で、整理して、再考したい。
とまれ、最後に一言述べておこう。
どうも、⇒+1の⇒は生命力のように思える。それは、例えば、植物が垂直に伸びる力である。
しかし、それは氣ではないだろう。
途中。
『海舌』氏による人間認識図(要大修正)
太陽は上図で言えば、原点(PS理論ではMP【メディア・ポイント】と呼ぶ)に位置すると思う。
それは、氣から生まれる陰陽共鳴様態だと思う。
そう、氣を2つに分ける必要があると思う。
先に、氣と生命力に分けたが、そうではなく、デュナミス(未活動態)の氣、エネルゲイア(活動態)の氣である。
詳細は置いておいて、ざっと言うと、デュナミスの氣が、陰陽共鳴によって、活動する。エネルゲイアの氣となる。これが、太陽の根源ではないかと思う。
そして、⇒-1へ行くのが、可視光ではないだろうか。そして、⇒+1へと行くのが、不可視の氣(エネルゲイアの氣)ではないだろうか。
少し説明が粗い。
イメージは、未活動(未発、已然)の氣があり、それが、分極化して、活動化する。そして、上図の原点(MP)で実軸に沿って、両方向に展開する。
陰陽調和共鳴は⇒+1へ、陽主導は⇒-1へと進展する。前者が氣のエネルゲイアであり、後者が日光だと思う。
しかし、日光は原点を介して、氣を背景にもっているのである。
そして、この氣が生命力、情報生命力と言えよう。日光は生命力、情報生命力(イデア的生命力)を内包しているのである。
とまれ、原点(MP)が太陽の位置である。陰陽両極によって成形される。
今は、ざっと述べているが、以上の考え方をすると、氣はこれまで以上に複雑になるようだ。
即ち、
1)先ず、不活動態の氣がある。それは、とりあえず、イデアの氣=イデアの陰陽と呼んでおこう。デュナミスの氣でもいい。
2)それが陰陽共鳴によって活動化する。それが、氣のエネルゲイアである。
3)⇒-1は日光、可視光であり、⇒+1は氣のエネルゲイアである。
ということになるが、明らかに、2と3は齟齬である。
氣のエネルゲイアが2つ存するのであるから。
氣のエネルゲイアを2に限定するなら、⇒+1は何なのか。
今、閃いたが、⇒-1が日光ならば、⇒+1はダーク・マター(暗黒物質)ではないのか。
精緻に言おう。⇒-1の⇒が日光で、-1を物質とする。
そして、⇒+1の⇒が不可視の光で、+1をダーク・マター(暗黒物質)とする。
D.H.ロレンスがダーク・サンと言ったが、それは、⇒+1の⇒の不可視の光ではないだろうか。
とまれ、以上のように作業仮説すると、氣とは、光を形成すると同時に、不可視の光も形成しているということになる。
とまれ、氣はデュナミスの氣とエネルゲイアの氣の2つになり、後者は、さらに、可視光と不可視光を発生すると思われる。
問題は、氣と不可視光を混同しやすいことである。
そう、-1の方向を光とするなら、+1の方向は闇である。
とまれ、氣本来、不可視であるから、氣と不可視の光は混同されやすいだろう。確かに、私が氣を感じるというときは、当然、それは、不可視の光に思えるが、それほど、単純ではない。
私が感じる氣は、氣=陰陽共鳴のように思える。つまり、原点(MP)において、⇒±1と展開する以前の様態である。
ならば、それは、デュナミスの氣ではないのか。
しかし、森の空気の中で感じる氣もそうなのだろうか。
どうも、二つの「氣」があるようだ。
混乱している。
後で、整理して、再考したい。
とまれ、最後に一言述べておこう。
どうも、⇒+1の⇒は生命力のように思える。それは、例えば、植物が垂直に伸びる力である。
しかし、それは氣ではないだろう。
途中。