個の実体感とは何か:超越性と頭の認識:超越性の理念への変容? | Resurrection : 復活の森:ヤポネシア、夜明けと目覚めの光復:GP陰陽哲理学Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience

個の実体感とは何か:超越性と頭の認識:超越性の理念への変容?

久しぶりに、約一ヶ月ぶりに理論的考察をする。
 私は個立主義、個元主義を唱えている。これは、個人主義とは似て非なるものである。個人主義は、言い換えると、自己主義、自我主義である。
 それに対して、個立主義、個元主義とは、自己と他者との均衡に立つ、言わば、利己-利他主義である。
 問題は、個というものの基軸感、実体感、等である。これは、一体何であるのか。
 そう、「わたし」には自己の中心性はあるのであるが、それは、他者性を基礎にもっている。
 他者性に根付いた「わたし」であるが、「わたし」の意識は、他者性を潜在化させている。
 そう、頭で意識する「わたし」がいる。そして、肚を大地のようにしている「わたし」もいる。
 そして、胸の感性ももつ「わたし」がいる。
 これらの三層が「わたし」の意識を構成し、それが、個を成立させている。
 個の実体感とは、直感では、身体、肉体であり、その意識である。
 つまり、物質的意識ということになるのではないだろうか。
 しかし、ここは微妙なところである。
 今現在の私の直観で言えば、個の実体感ないしは「わたし」の実体感とは、頭にある。頭の認識にある。
 身体よりも、頭の意識の方が実体感がある。
 思うに、精神学者のルドルフ・シュタイナーの説く「わたしich」とはそれではないだろうか。
 これは、正に、単独、独一、唯一的である。
 では、この個の実体感の単独、独一、唯一性と超越性はどう関係するのだろうか。
 個の実体感において、超越性は感じないのであるが、無双PS原理からは、個は超越性、太極から生起することになる。
 思うに、やはり、個とは、身体、物質的身体に存在しているので、超越性が感じられないということではないだろうか。
 物質的現実、物質的現象界に生きるとはそのような脱超越的認識に生きるということではないのか。
 とは言え、個において、まったく超越性、太極、霊的精神が消えているのだろうか。有り体に言えば、消えているように感じるのである。
 消えているように感じると消えているとではまったく意味が異なる。
 直感では完全には消えてはいない。ならば、どこにそれは存するのか。
 ほとんど消えているように感じる超越性とはどこにあるのか。
 確かに言えることは、それは、頭にはないということである。頭の意識、認識は、ほとんど物質的ないしは概念的なもので、超越的なものではない。
 無双PS原理から言えば、内在的超越性とは、MP(Media Point)=胸に存するのである。
 で、直感ではそうだろうか。内在性は胸にあるが、そこに超越性が感じられるのか。
 有り体に言えば、感じないのである。
 かつて、肚に超越的宇宙を感じたが、今や感じない。
 そう、あるようには感じるが、あるとは感じないのである。
 思うに、かつて感じた超越性はどこに行ってしまったのか。
 一つの考えは、超越性は、頭の認識へと変容したということである。言い換えると、超越性は概念的認識に変容したということである。つまり、超越性の哲学化である。
 では、端的に、概念、あるいは、頭の意識、認識とは何か。
 思うに、それは、理念あるいはイデアではないだろうか。かつて、イデア界を超越界としたが、それは、頭に存するのではないだろうか。
 とまれ、超越性が理念に変容したというのは考えられることである。それは、発達であるかもしれないが、しかしながら、それは、孤独的なことである。もはや、超越的慰めはないからである。孤独としての個立である。ある意味で、神が個となるのである。しかし、神の観念は消えるのである。そう、全き個である。
 今はここで留める。