知性や理性を成立させるには、超理性というべき太極陰陽性が必要であるということである。
単に知性だと、自我的感情・欲望に引かれてしまうのである。自我的感情・欲望を抑えた(利己・利他的)知性が超越論的知性と考えられる。
追記:以下の説明だと、理性は、推論・論証的能力ということであるが、その意味なら、「理性のある」実業家とは言える。
追記2:超越論的知性ではないかと述べたが、それだと私のこれまでの議論と齟齬を来してしまうので、「理性」を超越論的知性というのは、廃棄する。
ここら辺の問題は、精緻に検討する必要がある。間違いは、発見の元になるものである。
とまれ、簡単に言えば、自己と知性(悟性)の関係である。あるいは、自己と理性との関係である。
問題は自己同一性なのである。これが、自我感情・欲望と結びついているのである。
自己同一性があるなら、知性や理性は、混濁してしまうのである。知性や理性を成立させるには、自己同一性ではない、差異他者の肯定が必要である。
言い換えると、太極が必要である。
陽=頭の自己に対して、陰=腹の他者が必要なのである。
カント哲学では、実践理性の問題になってしまい、内在性がないのである。つまり、個的内在性がないのである。
結局、造語をすれば、知性や理性を成立させるには、超理性というべき太極陰陽性が必要であるということである。
追記3:しかし、次のことは言えるのである。米国の超越論的知性は、言わば、悪魔的知性である。シュタイナー的には、悪魔アーリマンの業である。
米国は超越論的視点にあり、漁夫の利を狙っている:日本の無能田政権は利用されているだけ
テーマ:無双PS原理無能田政権は、まったく、超越論的視点がなく、米国の超越論的視点によって、利用されている。これは、中国の戦争路線も同様である。
とまれ、この超越論的視点・視野とは、カント哲学的視点であり、近代西洋哲学の成果である。
これが欠落している日本の政治家は愚の骨頂である。
日本では報じられない反中国デモ
中国のように、デモが暴動にも発展せず日本国民の意思として反中国感情があり、それがデモに発展しているという事実だけを淡々と伝える方が、より健全な報道だと思いますが果たしてどうなのでしょうか?
この中国問題ですが、政治・経済界が中国に「遠慮」している間に、国民は冷静に反中国を実践しており、
中国向け旅行をキャンセルしはじめており、JAL・ANAの中国路線は大幅な減便や機材の小型化に踏み切っており(もちろん、中国も減便・運航停止等も実 践しています)、日中間の旅行者が激減してきており、現場段階で影響が出てきており、また、日本では中国人経営者の店にはいかないということも起こってお り、これがさらに激化すれば、中国国内の理性のある実業家は、政府に対して「我々の生活を脅かす政府はけしからん」として中国政府に対して圧力をかけるこ とになります。
これが更なる紛争を防ぎ、日中政府の暴走を止める唯一の方法だと言えます。
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理性 - Wikipedia
哲学における理性 [編集 ]
知性と理性の区別はギリシア哲学におけるヌース (知・叡智)とディアノイア(dia 経由して + noia 知: 間接知・推論知)の区別に基本的には由来する。また、古典ギリシア語では論理と理性を表す語はともにロゴス であったが、このロゴスという語は古典ギリシア語で元来は、比や割合という意味を有していた。そこから、ラテン語でも同じ意味を持つ日常語であったratioがロゴスの訳語とされ、ロマンス語 や英語で理性を意味する語もその流れを引き継いだ。セネカ によればこれはキケロ による訳語であるという。
こうした語の由来は、西欧の伝統において、理性や論理を類比的な方法・秩序として考える傾向をもたらした。こうした、理性的推論を比例モデルで理解 する時一番典型的なのが、三角測量や、特定の時刻での影の長さと棒との比例関係から、直接計れないピラミッドの高さを、その影の長さを基にして推論するよ うな場合である。
現代の英米圏の哲学(分析哲学 )にしばしば見られるように、理性は日常的に悟性 (狭義の知性)と混同した用法で(広義の知性として)使われるが、スコラ哲学 以来の西洋哲学 の伝統では「推論・論証 的能力としての理性」と「対象を把握する(understanding)能力としての悟性 」とを区別するのが普通である(明晰性、妥当性 は前者に、直観は後者に属する)。
理性と情動 [編集 ]
理性(あるいは高次の認知能力)は伝統的に、感覚 (senses)、感情 ・情動(feelings、emotions)、情念 (passions)等と対比的に用いられてきた。理性は純粋に精神的能力であり、情動は肉体的な作用であると考えられることもあった。例えば、非常に騒がしい場所にいる時やひどく悲しんでいる時には理性的な判断を下すのが困難になる。
近年、行動経済学 と実験心理学 は理性的な熟慮がかならずしも合理的な判断を引き起こさないことを示した(認知バイアス )。心理学の機能主義学派 は情動をヒトの生存と結びついていると考えていたが、同様に進化心理学 は認知バイアスや情動的直観が必ずしも不合理ではなく、特に我々の祖先の時代の環境では合理的な判断に結びついていた可能性を示した。これは理性と情動・感情が相互作用的または並列的に判断や意思決定 に関わっていることを示唆する。これは二重過程理論 あるいは二重プロセスモデルと呼ばれている[1] 。スタノヴィッチはこれまでに提案された二重プロセスモデルに類似したモデルを列挙している。それらは詳細は異なるが、次のような共通点を持つ。
- 理性的システム-ゆっくりと働き、長期的な利益を勘案することができ、主に大脳新皮質 に司られている。進化的な起源 は比較的新しい。
- 情動システム-即座に働き、短期的な利益(主に生存・繁殖)に関わり、主に大脳辺縁系 に司られている。進化的な起源は古い。
二つのシステムがどのように相互作用するかには、これらのモデルの提唱者の間でも合意がない。状況や判断の内容によってもことなる可能性がある。
理性の限界 [編集 ]
理性には限界があるのではないかという議論がある。 その例として、哲学者のカント は二律背反 を指摘している。アロー の不可能性定理 、囚人のジレンマ (選択の限界)、ハイゼンベルク の不確定性原理 (科学の限界)、ゲーデルの不完全性定理 (知識の限界)などもその例として挙げられる。[2]