日本民族病理の集団的父権主義とは何か:集団的自我とは何か:自他未分化の太極的様態の旧人の日本人 | Resurrection : 復活の森:ヤポネシア、夜明けと目覚めの光復:GP陰陽哲理学Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience

日本民族病理の集団的父権主義とは何か:集団的自我とは何か:自他未分化の太極的様態の旧人の日本人

日本民族病理の集団的父権主義とは何か:集団的自我とは何か:自他未分化の太極的様態という旧人の日本人心性

無双PS原理から日本人の集団的自我(語義の矛盾があるが、おいておく)はどう分析できるか。
 これは、一種の封建的心性と言えよう。自己(個)認識方程式凸i*凹i⇒+1から見ると、他者凹iが集団的権力であり、それを肯定するのであるが、自己凸iは否定していると考えられる。
 もし、本来的に自己凸iが存するならば、他者凹iの集団的権力と対立するはずである。
 言い換えると、集団的自我とは、他者に傾斜した心性であるということになる。自己よりも他者に傾斜しているのである。
 とは言え、果たして、それでいいのだろうか。他者傾斜でいいのだろうか。日本集団的自我とは、そもそも、自己と他者が未分化状態にあるのではないか。だから、無双PS原理から言うと、太極の分極化以前の様態に存すると考えられよう。
 つまり、分極化が発生する起点であるMP(原点、交点)の位置に存するのではないだろうか。このときの太極が権力ないし権威である。それと集団的民族は一体であるということになる。言い換えると、自他区分以前の未分化融合状態に集団的民族の心性は存すると考えられる。
 この自他未分化融合様態であるために、多数の日本人は個的自立ができず、権力に唯々諾々と従うということだろう。
 とまれ、この古い日本人とその国は滅びる運命にあると言えよう。ポスト福島原発の黙示録的エポックにおいて、この集団的日本人・日本は消滅していき、新しい個的母権主義の日本人・日本、言い換えると、個的共同主義の新生日本人・日本が誕生するだろう。
 そう、自他未分化の集団的心性とは言わば超越論的であり、盲目な信仰のようなものである。これは、理性、知性では、矯正不可能である。滅びゆくものは、滅びゆくしかないのである。それが、自然の必然性である。そう、正に進化である。
 個的エポックに環境適応できない民族は淘汰され滅びるのが自然の摂理である。人類進化の意味を甘く見てはいけない。(もっとも、閉鎖系ならば、ガラパゴス諸島のように生き延びることができるが。)
 以上は集団的父権主義の集団性の側面についての分析であるが、父権主義の側面については、触れていない。それでは片手落ちなので、一言述べよう。
 集団的父権主義(集団父権主義)とは、自他未分化の権力において、父権制が支配するということである。思うに、自他未分化の権力とは、本来には、母権である。(だから、権力と言うと語弊があるが、そのままにしておく。)
 だから、原初的には、母権的自他未分化様態があったと考えられる。(これは、縄文的個的母権制ではなく、弥生的農耕文化的母権制である。)
 この心性に、父権制が侵入したと考えられる。(史的には、母権的天皇制に父権制に侵入して、父権主義的天皇制が誕生したと思う。)
 現実的に言えば、弥生的農耕集団的民族(既述したが、縄文文化と弥生文化が融合したと考えている)に父権的遊牧民族が侵入して、後者が前者を支配したと考えられる(これが、記紀、とりわけ、日本書紀に記されていると思う)。
 このとき、自他未分化融合心性は父権的権力に従属するようになったのである。そのときの権威が天皇である。母権的天皇と父権的天皇の二重性が生じたのである。ギリシア神話で言えば、ゼウスに当たるのが、天皇である。
 これが、集団的父権主義の父権主義的側面の意味である。
 結局、縄文的個的心性から復活する必要があるのである。これは、シュメール・ケルト・縄文・環太平洋文化圏の一環である。
 これについては、余裕のあるとき、詳述したい。

追記:侵入した父権的遊牧民族とは何か。これが長年の謎である。