自己意識問題:近代的自己意識分裂様態から新しい全体的自己意識様態への進化 | Resurrection : 復活の森:ヤポネシア、夜明けと目覚めの光復:GP陰陽哲理学Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience

自己意識問題:近代的自己意識分裂様態から新しい全体的自己意識様態への進化

自己意識問題:近代的自己意識分裂様態から新しい全体的自己意識様態への進化


原初MPが作用する場合、それは、近代においては、反動様態であるが、それは、全体的自己意識志向性をもっているのではないだろうか。それに対して、近代意識はデカルト的自己傾斜した意識、近代的自己、近代合理主義意識である。

 だから、原初MP的全体自己意識をもつとき、近代意識は、自己疎外的作用をするものとして、現れる。前者は、史的には、ロマン主義になると考えられる。

 神秘主義的詩人版画家のウィリアム・ブレイクの幻像的詩で言うと、ロスとユリゼンの対立・闘争となるだろう。

 ここには、分裂があるのである。全体的自己意識と自己同一性意識の分裂である。しかしながら、魂、サイキを重んじる立場ならば、前者が主導的である。

 では、この二つの自己とはいったい何であるのか。文化史的に言えば、前者は古い自己であり、後者が新しい自己である。また、これは、近代文化史における、分裂様態を意味する。これは、無双PS原理から言えば、未分化様態ないしは、連続的様態である。これは、一種病理的様態である。そう、自己分裂様態である。

 これを超克するのが、先ず、不連続的差異論の認識である。そして、初期PS理論そして無双PS原理の認識である。認識とは、意識、精神の力学である。(思うに、霊的力学と言えるのではないだろうか。そうならば、認識とは、霊的認識と言える。ただし、今日においては、自己同一性化されて、物質的になっている。つまり、物質的霊認識になっているということになる。)

 近代的自己分裂様態の超克とは、新しいMP認識を意味する。自己凸iと他者凹iとの新しい陰陽差異共振を意味する。言わば、自己が他者となり、他者が自己となるのである。自己と他者の即非様態である。また、これが、新しい個の様態である。文化史的に言えば、近代意識と前近代意識の進化的統合である。これは、トランス・モダンである。これは、ヘーゲル弁証法的ジンテーゼではないだろうか。即ち、テーゼが、古い全体的自己意識(古い霊的自己認識)、アンチテーゼが、近代的自己意識、ジンテーゼが新しい全体的自己意識と考えられよう。

 しかし、注意すべきは、先に述べたように、アンチテーゼの否定は、論理的否定ではなく、規定である。だから、ここにおけるアンチテーゼは近代意識の規定である。

 そして、ジンテーゼとは、アンチテーゼを包摂する新しい全体的自己意識、即ち、不連続な他者と共振する自己意識の生成ということになろう。

 思うに、ジンテーゼをもたらすアウフヘーベン(止揚、揚棄)は、反の反、否定の否定というのは、ミスリーディングである。何故なら、反の超越論的包摂が止揚であると考えられるからだ。

 また、もともと、合という日本語がミスリーディングである。合ではなく、共である。あるいは、共立である。

 とまれ、新しい全体的自己意識であるが、アンチテーゼからそこへと到達するには、近代意識の他者が必要である。この他者との共立共振によって、それがもたらされるからである。つまり、単に形式的な論理があるのではなく、そこには、霊的認識的力学が必要なのである。他者存在という差異的質が必要なのである。

 そう、キルケゴールが質的弁証法を唱えたのは、正鵠を射ている。単に反の反、否定の否定では、止揚は不可能だからである。

 思うに、無双PS原理の差異共振原理(陰陽極性原理)とは、質的弁証法と同一であると言ってもいいくらいである。ただし、キルケゴールには、陰陽的差異共振の視点はなかったと考えられる。

 そう、結局、弁証法とは、三分法というより、四分法にすべきだと思う。即ち、Ⅰ正⇒Ⅱ反⇒Ⅲ他者⇒Ⅳ合(共立共振)である。一般にⅢの他者が弁証法に抜けているために、弁証法は現実的には全体主義、独裁主義に帰結すると考えられよう。