我が意を得たり:悟性と理性:唯物弁証法と無双PS原理(陰陽極性思考) | Resurrection : 復活の森:ヤポネシア、夜明けと目覚めの光復:GP陰陽哲理学Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience

我が意を得たり:悟性と理性:唯物弁証法と無双PS原理(陰陽極性思考)

以下、久しぶりに、哲学の明敏な思考を見たので、転載させていただいた。私が小泉元首相、橋下市長にみる「唯物弁証法」は、以下の「悟性的思考」に相当し、ヘーゲル弁証法さらには、無双PS原理には、「理性的思考」があると言えよう。

「悟性的思考」と「理性的思考」2

インターネットのブログやサイトの記事や論文を読んでいて、最近とくに感じること考えることは、「悟性的思考」と「理性的思考」の相違ということ だろうか。もっとも、それらがどう違うのか、また、そもそも悟性的な思考と理性的な思考とはどのようなものなのか、といった問題意識をもつ人自体が、ほと んどいないのが現状だと思うけれども、いずれにしても、思考の本質におけるこの両者の違いが、決定的に重要だ、ということを感じるようになった。

とくに、高名な学者、ジャーナリストや大学教授などにおいても、私の立場からすれば、その論考において「悟性的な思考」しか出来ていないな、という 感想を持つ場合が少なくない。そして最近になって、とくに、そこでいわゆる「悟性的な思考」の破壊的な、否定的な働き、その現実的な作用を自覚するにつけ て、ますます、この「悟性的な思考」の限界を、否定的な作用を人々に知らしめる必要を痛感するようになっている。また、ヘーゲルが自身の生涯を「悟性に対 する理性の戦い」と表現せざるを得なかったことも、およそのところを推測できるようになったと思う。

もちろん、私自身も今のところ、悟性と理性の違いについて、明確に定式化できているわけではないし、また、「悟性的思考と理性的思考の相違」については、哲学上の根本テーマだと考えていても、まだ、この問題を完全に解決しているのでも自覚しているわけでもない。

ただ、およその輪郭だけここで述べれば、「悟性は分析し、理性は綜合する」ということだろうか。もう少しわかりやすくたとえて言えば、磁石を例に とって考えるならば、磁石には陽極(+)と陰極(-)がある。また、人間や動物などの生命体には生と死がある。そして、現実においては、陽極(+)と陰極 (-)との間、生と死の間には明確な境界はない。しかし、一方では確かに私たちの認識においては、生と死、+と-の差異は歴然としている。

そこで悟性的な思考は、矛盾し両立しないものとしてそれらの二者を分断——これは判断することでもあるけれども——することによって「生ける現実を 殺してしまい、破壊してしまう」のである。いわゆる自称「革命家」や狂信的宗教信者の多くは、なぜ、彼らがそうした思想や認識を持つに至るのか、というこ とを問題として考えるようになって、おそらく、——まだ、はっきりと論証できているわけではないが——今では、彼らが「悟性的な思考」しかできないからで はないか、という推理をするようになっている。

いわゆる革命と保守の立場の違いといったことも、おそらくこうした問題との関連などでさらに深化させて論じる必要があると思うが、哲学者ヘーゲルな ども、彼の生きた時代に経験したフランス革命末期のロベスピエールたちが辿った政治的な顛末などを目撃して、そうした破滅的な事態を招いたことに、啓蒙哲 学の特質である「悟性的な思考」の論理的な帰結を認めたのではないだろうか。

大阪市長に当選した橋下徹市長やそのブレインでもあるらしい大前研一氏らの思考にも「悟性的な思考」の片鱗と特徴がさまざまに見られるように思う。 もちろん、橋下 徹氏や大前研一氏らの思想や政治的な活動を高く評価はしているのだけれども、どうしてもその反面において「悟性的な思考」の限界も「感じている」のが現状 だ、というべきだろうか。いずれにしても歴史や「概念としての大衆」は、理性的に事柄の必然性にしたがって動いてゆくのだろうけれども。大げさかもしれな いが、こうしたテーマについて、さらなる「国民的な自覚と議論」を期待したい。

 



悟性的思考と理性的思考(1)

http://anowl.exblog.jp/890902/   



夕暮れのフクロウ

———すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために———