予告はされていたが、
botのつぶやき登録数に制限が付いた。

既に制限数を超えているので、
つぶやきの入れ替えも出来ない。
今のままで出来ることは、
呟きを削除することだけ。

つまり、
契約をバージョンアップしたら、
登録数は2000個まで許されるということになったのだ。
そうすれば、後950個は登録できる。

できるが、今、呟きを増やしたり、交換したりするのはしばし休憩。
それには訳がある。

ちまたの言語空間は小さくゆがめられている。
これに、一分でも対抗せむと、
始めようと思ったが、想像するだに骨折り作業である。
手軽に140字で読めるようにすること自体が、
だいたい無理なことなのだし、少しも自信がない。
三日で投げ出すかもしれないと、
三日坊主と名乗った。

途中で気が付いたが、今では三日坊主は勤勉なのである。
月曜日から始めて、三日努め、一日休んで、三日努めると、
世間は月曜日である。
仕方なく、また三日努める。一日休んで、三日努める。
かくして週休一日である。

また、このbotを作るのに、引っ張り出した中に
読み返したい本もあった。新しく買い足して読んだ本もある。
このあたりに書いてあったハズなのにと探して、
未だ見つけられない句もある。
己の勉強不足を痛感しながらの作業だった。
幸運にも己の欠けたる所を補う方法を思いついたりもした。

故にbotの内容をいじるのをしばし休む。

入れ替えたり、増やすことを止めるという訳でないが、
1050位呟きがあって、不思議なことにまだ呟かれていないのもある。
つぶやき登録上限を超えたことだし、是、啓示と受け止めて休憩。

だからと言って、全くbotやアカウントを放っておくのでもない。
botは時々フリーズするし、放置は出来ない。
昨夜は面白い会話を拝読でき、楽しかった。

botの背後でうろうろしてながら、
フォローさせて頂いてる方々の呟きに勉強させてもらい、
ランダムに投稿されるbotを見て、ブログで補足しながら、休憩。

フォローして下さっている方々には、心より御礼申し上げます。
フォローして頂けなかったら、文字通り三日でアカウントは閉鎖していた。


今、ですます調にならぬのは、文語体の本を読んでいるからで、
原因の書籍を紹介しよう。
山本夏彦氏の『完本文語文』である。
その抜粋、
 見よ。四十五十のおじさんどもはテレビで
 「見れる」「出れる」と言っているではないか。
 文部省の役人もいっているではないか。
 十六歳十か月の少年藤村操の書いた文字が読めないではないか。
 祖国というのは言語のことである。
 文語口語を問わずそれは減少しつつある






女言葉と男言葉の違いを教えてくれたのは
山本夏彦氏である。

本居宣長も、大和言葉について語っているが、
読んでいて
よく分ったのは結局漢籍の影響を受けた男言葉の方であった。

今、話題にしたいのは、
フェミニストのいうところの女言葉ではない。

生活の中の言葉というべきだろうか。

これを思い出したのは、
夕の膳を用意するのに、
里いもを取り出した時である。
手が鈍っては困ると、六宝に切ることにした。
百貨店に出店している老舗料理屋の煮物にも入っている、
芋を六角形に切った、亀の甲の形の、あれを作ろうと思ったのだ。

その切り方は祖母に習った。
習っている時は当然綺麗な六角形にならない。
仕上がりからは六宝に切ろうという意図がそこにあったとは
決して思えない。立派な代物を作った。
八角形なら楽である。
だから、なぜ六宝かと、祖母に問うた。
暫くあって
「ハレの膳はこうするものだ」という。
そこからは、周りにいたおば達と曾祖母の話やら
戦中の芋粥の話へと、話題は広がっていった。

さて、女言葉だ。
~ですわ。~ですのよ。とか、語尾を付けるのが女言葉ではない。
だからといって、乱暴に話していいことではない。
女言葉は子供のための言葉なのだから。

山本夏彦氏は、四人のことを「よったり」と数えることを、
女言葉として挙げていた。確かにそうだ。
そうだが、今、書きたいのは、
女言葉で伝えられる内容である。

芋と格闘しながら、
夫が戦争に行った家のあれこれを聞き、
兵士を出さなかった家ののほほんとした様々な構えを知った。
戦中戦後、食糧を得て、義妹たちや子供達に食べさせるため、
とにかく全ての着物やら何もかも、
自分のものを食糧にかえてくれた大伯母のことや、
幼い姪・甥を気に掛けない大食いの小姑がいたことや、
ハレの膳の芋はなんとしても六宝に切らねばならぬことを
知ったのである。

大伯母は、大人とはなれて私が芋と格闘する炬燵の向こうで、
食糧にならず残った襦袢を、腰ひもに縫っては、
一族の女どもに贈る一大事業を一針一針進めていた。
話題になった小姑は呼ばれていない。
大伯母や台所に立つ女たちに、
時折、お茶や白湯をすすめられ、芋を笑われ、
指を切るなと注意される。
騒がしい中、何とか独りで2つか3つの芋それぞれに
何処かしら角を6か所作って、
十二分に草臥れた。

男性にとっては回りくどい話である。
伝統とは~と抽象的に話せばいいことである。
人を治めるということは~と説明することをだ、
女言葉であると、かくも長々となる。
本当の話言葉で書いたらもっと長くなるが、
ぬくもりのある思い出として脳裏に焼き付いた、
実体験を伴う言葉である。

それこそ言葉通り、判断の基準を作る言葉である。

わが家では芋はハレの時は、六宝に装って、食卓に並ぶ。
なぜかといえば、
祖母も母もそのように料理をしたからで、
おそわった時の事を思い出とともに、
包丁を使って大丈夫な頃、子にも、そのように教える。
日本のどこかで、いや日本料理は世界の高級料理の地位を得た。
だから、人間が、
御煮しめ、炊き合わせを、美味しいと思わなくなるまで、
装いを纏う芋が六宝に形作られることは、続くことだと思う。

芋のあの形を、耳で知っていたが、恥ずかしながら書いたことがない。
たしか“ほう”は“宝”だったと思う。
教養の欠けるところを、また補うために、苦闘せねばならない。











世間に
自覚なく自虐史観に満ちた見解があふれているので、

自分が保守か左翼なのかわからなくなってしまう危険があると

言われます。


自虐史観の形成には、
確かにGHQの政策もありましたが、
それをより醜悪にし、
自らを虐げたのは、日本人自身です。

マッカーサーもそのように証言しています。
ではなぜ、日本人は自らを蔑むようになったのか。


大正12年に、マルクス主義思想が流入して以来、
その信奉者は日本で活躍しています。

彼らは「戦争に敗ける」ことは、
日本を共産化する好機ととらえて活動していましたから、

日本の敗戦後、
GHQの威を借りて、活躍しました。

彼らが活躍できる素地だができたのは、
明治維新で欧米型の法律を施行したことによるのですが、
それはさておき。

自虐史観は、戦後教育に反映されています。

小中高と、学校を通して、
テストテストで繰り返し暗記し、刷り込まれています。

そこから自由になるために、
正しい歴史を知るだけでは、不足です。

自虐史観的な物事の観方の「癖」を止めて、
初めて自虐史観を止めたことになります。

ただ、この時、
癖を直した物事の観方はどのようなモノか
を知ることが必要です。

江戸時代を題材にして、ご紹介いたします。


まずは題材
(『近代農民近代史』より一部要約P5~7)
熊本藩は貞享元年(一六八四)の農民法度で、
農村においては、農業を営まない者は、宿町への移転を定め、
赦免品以外の商売品を売ることを禁じました。
そして、
これを強制するための、
5人組による密告制や庄屋まで罰する連座制を導入したのです。

熊本藩は農村での商売品は
塩、農具、雑魚、鰯、木綿、油、筆紙墨に
限定してしまいました。

時代が下ると、
一七五三年に、農村で商われる品物に、
苧(からむし)と麹が追加され、薬も認められるようになりました。
一七七〇年には、
茶、煙草、付木、灯心、線香、蝋燭、真綿、地布を追加しました。
商い品を追加しながらも、
取り締まりのために役人が廻村し、密告者に商品を与え、
密告制が機能するように努めました。
そんな状況下、
農村では居酒を売る者も多く、
徳利酒の禁令を何度も出さなくてはいけませんでした。
(以上『近代農民近代史』より要約)

これを読んで、

農業をしない農民を、強制的に町に移住させる封建主義。
商品を自由に売買させない藩政。
密告制による監視を強要され、
行動が制限され、
農民は武士に、虐げられている。

と、
判断したのなら、
おめでとうございます
自虐史観が

今も元気はつらつ若々しく働いています。

では、自虐史観の判断基準に依らないならば、
江戸時代のこれらの情報をどう見るのかが問題となると思います。

そこで、提案です。

このように観てみませんか?


江戸時代、政治を始めた武士は、
所謂、統制経済の手法を採りました。

それでも、商いが許された品物をみると、
現在に通じる日本文化の一端が垣間見れます。
たとえば、
「雑魚、鰯」 農民のタンパク源になるとともに、
農地の肥料にもしていました。

狭い田畑を効率的に使い、
人間を養う食べ物を作るために必要でした。

これらは、ずっと日本人の身近にあり、
お正月には、田作りとして、祝い膳に並びました。


「木綿」 始まりは農民の衣類を賄うためだけに許した木綿は、
後に農村での手工業発達の材料となります。
農閑期に機織り仕事を請け負い、紬の生産を始めます。


「油、筆紙墨」 これだけあれば農民は勉学ができます。
武士は、農民が読み書きすることを禁じなかったのです。


また、時代が下るごとに、
武士が見回ろうと、五人組や連座制があろうと、
農村に流入する商品が増え続け、
商いが許された品が増えていきます。
五人組も連座制も武士の見回りも、
商品の流入を止めるのにあまり役立
たなかったようです。

ここで、特筆すべきは農村の購買力の向上です。


農村を追い出され町に住むことになった者達の、
手工業も効率的になったことと農村の購買力が上がったために、
灯心など簡単に作れるものも、商品になりました。

また線香が農村で扱われるということは、
祖先信仰に費やす余裕が生まれてきたことを示します。
蝋燭も、灯心を使って夜を照らしていたことを思えば、
画期的な品物が農村にやって来たことになります。

そして、何度禁止しても酒造が止まないのが面白いですね。


始めに導入した統制経済は崩壊です。
農村を見回る武士にしても、

剣術が弱く、学問ができず、無粋な者は、
さぞかし形見が狭くなったことでしょう。


ブログには字数制限があるので、この辺りで止めます。

この藩の役人の取り締まりと、
生命を謳歌する農民とのいたちごっこのような情景は、
熊本藩に限らず、江戸の落語にも見られます。


青文字で書いた観方の方が、その後に、
武士と農民の間に入って商いする商人の哲学や、
農民に侮られぬように己を律する武士の哲学が
育っていく
背景を説明しやすいと思います。


さて、同じ事を理解するときの視点の違いがわかりましたでしょうか?

わからなかったなら
私の力不足です。

この度は之にて失礼いたします。