「二千年も前に人間の知恵は出尽くしている」は、
山本夏彦氏の言葉である。

『菊と刀』を書いたルース・ベネディクトが、
「死者皆悉成仏」の思想は、
仏教国の中で日本にしかないと書いているので、
すぐに、
それはそうだろう!だってそれは神道そのものの思想だものと結論した。

神道は人の中に神性を認める。
昭憲皇太后の御歌の
“金剛石も みががずば  たまの光は そわざらん。 ひとも 学びて 後にこそ、まことの徳は あらわるれ”
も神道の思想が根底にある。
磨き、勉めれば、どの人もその神性より光が現れると信じているからこその御歌である。
その点に貴賤・賢愚の差も区別もない。

それを感性とするからこそ、
生存本能と自己犠牲との狭間、
狭間と書く余地も選択の機会もない戦場で、
驚愕の利他的行為を日本人はやってのけた。

個々の戦場史を追う前に『日本人の勇気』という
軽い読み物を訪れになると、
数時間で、
英霊より
今を生きる日本人に贈られたモノに出会える。
予告しておく。
我ら民族の祖先は凄い。
神あがる人の話が連なっている。

アメリカ 戦略局は
日本人に戦い死んでも神になれないと思わせなくてはならないと“決定”した。
そして、
マッカーサーは、ユダヤ教の原罪を以て日本人を啓蒙しようと思った。

この時期、日本でもアメリカでも
共産主義者は自由を謳歌していたから、
若造の国からやって来たマッカーサーの
そもそも余計なお世話だったことがあらぬ方向へ進んでいく。

いずれの国においても
自由と平等を!道徳は封建的だからやめましょう!
となった。

日本は教育勅語を学ぶ機会を子供から盗りあげた。

アメリカの偉いところは、
そんな社会主義・共産主義教育の結果について分析し、
軌道修正しようとしたことだ。
60年代以降のアメリカの教育界は“子ども中心主義”で、
十五歳から十九歳の子供の自殺率がかつての三倍にもなり、少年犯罪が激増したという。
一九九三年に『道徳読本』という本を刊行し、現在ではアメリカ家庭の第二の『聖書』となりつつあるという。

ただ戦いはずっと続いている。
終わることはないだろう。

社会主義・共産主義者のやったことは
人間をして
食を充たし
文明を築かせ
産業を起し
数千年、生き延びてきた秘訣は
その間に醸成し、継承し、加え、削りして今尚伝わる智慧であって、
古来より使い古されたような伝統的その智慧と秩序は、
健全な人間に必要不可欠であったことを証明したことと、
そのために
30年間、自殺した多くの子供の命と、犯罪者になった子たちの頭脳と人生を
実験材料に使い、捨てたことである。

自由と平等の代償にしては大きくないか?

そもそもその文明に育っていた文化を、
道徳を尊重していれば、
多くの子は死なず、犯罪者になって自ずと卑しく感じ入る心で生きる人間を造らずに済んだ。

さて、
始めに、
「死者皆悉成仏」の思想は、
神道そのものの思想だと結論したと書いたが、
私はそんな結論に辿り着いた史上初の人間ではない。

『「やまとごころ」とは何か』という本の中にも
同じ結論が出てくる。

これ己が馬鹿であると卑下することではない。
功名心のある学者や学者の意義を取り違えた人には一大事かもしれない。

先人が
「二千年も前に人間の知恵は出尽くしている」と書き残してくれている。

やっと自ずと人間の知恵に辿り着けるに至ったと安堵すれば良い。
功名心が満足できぬ事態であっても
新しい紙に書き残し、
子に話せば良いことである。

それを聞いた世代は
私が辿り着くまでに要した時間と経験の半分の労力で
二千年も前に出尽くした人間の知恵の意味を知るだろう。

日本はそうして二千六百年、文明の綾を織ってきたのだと思う。
そしてそれはかなり美しく残っている。
なにせ二千六百年遡れ、
二千六百年分の人間の生き様を知ることができるのだ。

行いと末路、不条理、挫折、幸運、努力、再起、無常。

まだ己が経験せぬそれを二千六百年分多様な人から知り、
またその人々が愚かで賢明であったことは知る機会を持つ
国に生まれたことは幸い。

二千六百年、日本文明が織ってきた綾はかなり美しい。






ブログを引っ越しましたが、
此の度は平行して、
記事を更新します。

さて、

『天皇たちの和歌』という本があります。

この題名に、
違和感を持つ方はいるはずです。

天皇陛下が詠んだ和歌は、
御製というのでした。
皇后陛下が詠むとお歌でしたか。

『天皇たちの和歌』とは、
正確には歴代の御製集となります。

なぜ御製という言葉を使わなかったでしょうか。
多くの人になじみがないから使わなかったのでしょうか?
では、なぜ多くの人になじみがないのでしょう。

御製という言葉は存在するのに、
多くの人がそれを知らない理由は?

また、
多くの御製を紹介し、
独自の解釈を添える傍ら、
御製という言葉を使わず、教えず、
啓蒙しない理由はなんでしょうか?

その結果は?

このようなことを考えたことがあるでしょうか?

御製という言葉を使わないと、
人が御製という言葉に触れる機会が減ります。
代わりに、
天皇の和歌という言葉を見て知るために、
御製という言葉が世代を超えて継承されなくなります。

さらに今日、
テレビ画面を眺めて過ごす人は多くいます。
そのテレビでは、
迂回と書かず、う回と書いていました。
蔓延と書かず、まん延と書いていました。
雪庇と書かず、雪ぴと書いていました。
こう書くことで、
日本人が日本人独自の文化・文明に接する機会をそれぞれ一回奪われました。
日本人が、己の文化・文明を継承する機会を奪う底意があるのだろうと思えてきます。

遥か遠い昔、日本でも字をを読めるのは、僅かな人だけでした。
ひらがな、カタカナ、その上多くの漢字を知っていることが、
自由に思考する手段として有利でした。

多くの漢字を知っている人びとにだけ、
情報も教養も占有されて、
他者に対して有利に生きる手段となっていました。

江戸時代に、
学問が自由になったことで、
日本人は漢字を使うことで遥か昔の書物を読むことができ、
賢者の言葉を知る機会を得ました。

漢字を使わなくなれば、
昔の叡智に触れる力を失います。
一時の流行り廃りの言葉で思考せざるを得なくなる危機に身を置くことになります。

御製という言葉一つを安易に思って、
天皇の和歌という言葉に置き換わっていることを見逃すのは、
危険だと思いました。

少しずつ知識・叡智を失うシステムの中に住まわされていると、
疑ってよいでしょう。

僅かしか情報がなく、
論理的思考を可能にする言葉が少ない人びとは、
洗脳しやすい人になってしまいます。
この人々は専横を許す土壌になります。

文化・文明が醸成される前の人間に、人の教養を戻すシステムが、
あちこちで働いているようです。

そんな視点で一冊の本を眺めてみました。