こんばんは

せしると申します。


明日は立春。

ということはそのうち夏が来てまたクリスマス来ますね。


さて、歌集を昨秋に出してから3ヶ月が過ぎ、多くの方からお便りをいただき、こんなに嬉しいことはありませんでした。

中には私が読むだけではもったいないような素晴らし歌評もあり、ただただ驚くばかりというのもあり、もちろんすべて宝物です。


歌人ではない方の、非常にユニークかつ深い歌評がfacebookにあげられましたので著者の了承を得てここにご紹介したいと存じます。


以下は

大学のサークルの後輩の、エディター石渡淳元さんの投稿です。


石渡淳元氏 facebook 2024.1/27


『ミントコンディション』(光野律子著)読了。

以下、とっても長文です!

読後の感想は3つ。

歌集というものを生まれて初めて読んだのですが、最も強く感じたのは、

「たったの三十一文字(みそひともじ)なのに、短歌とはなんと雄弁なのだろう」

ということです。

1ページに書かれているのは2首だけ。

なのに、というより、だからこそ、でしょうか。

言葉が強い力を持ち、著者が切り取った人生の瞬間の、ひと言では言い表せないような感情や空気が、立ち上ってくるような感じがしました。

たとえば、次の2首。

「ことり来てさえずりたるを聴こえぬと母は言いたり朝の食卓」

「母に声届けんとすればテーブルの山茶花ひとひら飯碗に落つ」

1首目は、朝ごはんをお母さまと食べているときのこと。

ここまで読んできたいくつかの短歌から、和歌山の実家で一人で暮らすお母様のところへ、著者がひとりで帰省したときのことだと推察されます。

二人きりの食卓。

小鳥たちのにぎやかなさえずりが、聞こえてきた。

「鳥が鳴いているね」

「鳥なんか鳴いてないわよ」

「えっ?」

上の会話はあくまで私の想像です。

家にひとりでいるときに、この歌を声に出して読んでみました。

「朝の食卓」と言い切ったとき、刻まれていた時がぷつりと切れ、心がざわつくような沈黙を感じました。

「時」をイメージしたのは、「ショクタク」という音が「チクタク」と母音が同じだからなのかもしれません。

母親が衰えていく。

「お母さん、耳、聞こえなくなってきているんだ・・・・・・」

母の老いを実感した瞬間の、驚きや戸惑いや哀しみが、静寂の中を漂っている感じがしました。

2首目は、そんなお母様との食卓での出来事。

耳が遠いお母様との会話では、当然大きな声でしゃべらねばなりません。

すると、食卓に飾ってあった山茶花(さざんか)の花びらが、ご飯の茶碗の上に落ちてきた。

「私、花びらを散らすくらい、大きな声を出していた・・・・・・」

山茶花は白や赤の花を咲かせますが、私は赤い花びらが1枚、白いご飯の上に落ちている情景をイメージしました。

突然現れた、ドキッとするような赤い色。

著者と同じように私も、その花びらをじっと見ているような気持ちになりました。

どんな思いで見ていたのでしょう。

こんなふうに、白くて余白がほとんどのページには、私がFacebookで書くような、黒くて長文の画面では決して表現できないような、豊饒さがあったのでした。

********************

2つ目は、これまで目にしたり聞いたりしたことのなかった言葉の数々に出合えた、ということ。

じつは、本書を読むときは必ず横でPCを立ち上げていました。

Googleやネット漢和辞典を駆使する必要があったためです。

たとえば、「獺祭(だっさい)」。

「使用済み切手を真夜のリビングにずらりと並べわれの獺祭」

文脈から、日本酒の銘柄をさしているとは思えません。

検索してみると、「獺(かわうそ)が捕らえた魚を岸に並べて、まるで祭りをするようにみえるところから、 詩や文をつくる時多くの参考資料等を広げちらすこと」とあります。http://tinyurl.com/btdy4bks

夜のリビングにいる著者がカワウソに見えてくるような、ユーモラスな歌です。

ほかにも

蛞蝓(かつゆ):ナメクジ

あなめあなめ:「ああ目が痛い」「ああ耐えがたい」(どくろになった小野小町が、目にススキが生えてきたときに言ったとされる)

ヘンレ版:ピアノの楽譜。情報量が少ない(=プロが使う!?)

美禰子(みねこ): 夏目漱石の『三四郎』で主人公が恋する女性

「猫の首絞るごと抱く少女の絵気にかかる夜のルシアン・フロイド」:ルシアン・フロイドはフロイトの孫で、ポートレイト画家。絵は下記にありました。確かに、気にかかります!画像、アップしました。

https://www.artpedia.asia/lucian-freud/

など、本当にたくさんありました。

***************************

3つ目は、私が知らなかった著者のことを、たくさん教えてもらったということです。

病弱な幼少期、ピアノ、故郷、結婚、家族、コロナ禍以降の激動のキャリア、猫、などなど。

著者は、大学のサークルの1学年上の先輩。

「華奢でお洒落で素敵な憧れのお姉さま」で「舌鋒鋭い毒舌家」という印象でした。

あるとき、私が人生初のパーマをかけたことがありました。

中森明菜の『あなたのポートレート』の歌詞、「軽くウェーブしてる 前髪がとても素敵」に刺激されたのでした。

https://www.youtube.com/watch?v=1uHpdvJLH0k

ところが、ウェーブとお願いしたのに、パーマがかかり過ぎてしまったようです。

「とても素敵」、どころか、「とてもおかしな」髪型に。

部室に行くと、みなさん、私の髪をひと目見るなり、笑いをかみ殺しているのがわかりました。

そんな中、あえて感想を言葉にしてくれた先輩がふたり。

その一人が「リツコ先輩」、すなわち著者でした。

「石渡くんって、すごいね」

第一声はお褒めの言葉。

「その髪型でキャンパスに来ちゃえるなんて」

そして、思い切り落としてくれました。

時代劇ならたすき掛けにバッサリ切られ、崩れ落ちているところ。

でも、嫌な感じがまったくしません。

それがなぜなのか、当時はよくわかりませんでしたが、本書を読んで、少しわかった気がします。

すでにいろいろな「痛み」を知っていたから、ではないかと思います。

毒は吐くけど、人を本当に傷つけるようなことは言わない。

さらに、もしかして、もしかしたら、「毒」の適量を知っていたりして。

「石渡くんだったら、耳かき5杯分くらいまで大丈夫」

とか。

********************

本書では、「ウツボ」が登場する短歌が4首、連続します。

「わたくしが私でありたくない時に」「ドン・キホーテ」の水槽に見に行く対象であったり、

「水槽の筒」で「笑みを浮かべて」いたり、

「ギャング」の異名を持ち、「体ががらんどう」の、「私」だったり、

「海辺の夏」に「祖母と」食べたりと、

さまざまな形で詠まれています。

3首目の歌。

「ギャングとう異名のありてその体がらんどうなる私はウツボ」

「ウツボは私」ではなく「私はウツボ」?

ここに至っては、ウツボが私なのか、私がウツボなのか、両者が混然一体となっています。

個人的な感想ですが、「ギャングとう異名」は虚勢のようなもの。

強く見せていても、体の中は空っぽで、実体はない。

そんな空虚な感覚、無力な感じをイメージしました。

そして、4首目では、ウツボは海辺でおばあさまと一緒に著者に食べられちゃいます。

ああ無情。

滋養強壮効果もあるようですから、「この子に食べさせたい」とおばあさまは思われたのでしょう。

それにしても、自分を、見た目が不気味なウツボと同化させるとは。

著者の鋭い舌鋒は自分自身にも向いていると感じました。

************************

本書では、心がざわっとするような言葉が随所にちりばめられています。

「道の辺の春をうずくまる巣立ち雛白衣の肉屋ら覗きこみ居り」

「白衣の肉屋ら」は、「巣立ち雛」にとっては恐ろしい存在です。

雛がすぐに飛び立つことができなければ、何をされるかわかったものではありません。

前後の歌を読むと、著者が1カ月ほど勤め、ご縁がなかった職場にも「白衣の肉屋ら」はいたようです。

「巣立ち雛」にはぜひ、「白衣の肉屋ら」の頭上高く舞い上がり、第二歌集の言の葉の森を目指してほしいと思います。





以上です。

石渡くんありがとうございました。



それから私のブログをお読みくださった方、ありがとうございましたm(__)m