この本はセクシャルマイノリティ、ゲイやレズビアンのカミングアウトの実話です。

関係ないことって思ってる方が多いと思うし、受け入れられると、常識として思っている人も多いと思います。

他人事と思ってる人もいるかもですね。

私は左利きです。

昭和の時代はかなりのマイノリティでした。

しかも私の実家はど田舎。

それでなくても「人と違う」ことが受け入れられなかった時代。

母は都会育ちで元保育士で、左利きを矯正しようとはしなかってですし、今も私は普段は左で何でもしますが、子どもの頃、地区の集会などで食事をする時は物心ついた頃には右手で食事をしていました。

たぶん私が嫌な思いをしないようにかなとも思います。

そういう下地があるせいか、なぜ嗜好や生まれ持った性質で差別されなきゃいけないのかという怒りがあります。

所詮他人事??

いえ。

ちょっと複雑ですが、私の息子の元パートナー(女性)は私にとって今でも娘のように思っていて、今も関係があるのですが、その子の今のパートナーはカミングアウトされてはいないですが、女性です。

私は男だろうと女だろうと、好きならば、お互いが幸せならばいいと思っています。

でも、セクシャルマイノリティの存在はテレビなどで知ってる方も多いけど、自分の身近な人がという想像をしてる人はいないのかなとも思います。

受け入れられる??

「受け入れるか受け入れられないか」そういう発想がまだまだだなぁとも思っています。

この本にカミングアウトされた母親の言葉があります。

わかっていても受け入れられない。そのパートナーが異性ならばと考えてしまう。孫は見れないのか。。と。自分(親)の方が先に死ぬ。将来が心配ではないのかと。

きつい言い方かもしれませんが、怒りしかないです。

何って?

子どもは自分の面倒を見るために生まれるのではないし、結婚してても子どもがいてもいなくても自分のことを背負うのは自分です。

同性のパートナーはもちろんですが、子どもを持たない結婚だって、結婚して子どもがいたって、子どもを頼る前提で話をするのは違和感しかないです。

一生独身の人がいたっていいです!

将来が不安?

結婚してても一緒に死ぬわけじゃないので、独り残されるのと独身と何の違いがあるのか??

人はお互い助け合って生きていくので、人との関係を築くのは大切だし、何かあった時頼れる人がいるのは大事ですが、それが結婚相手である必要はないし、まして、子どもでもないです。

昔の常識で生きてる人が何と多いことか!!

だから、セクシャルマイノリティの人が、まず、自分の中で、自分はおかしいのでは?そのうち異性を好きになれるかも?と長い間独りで誰にも言えずに悩むことになるのです!

私は学校でも生徒たちがセクシャルマイノリティかもしれない前提で、恋愛の話の時は異性と限定しない話し方をしています。相手はあまり感じてないかもですけど。

今までは、ファっと異性か同性か区別がつかない言い方をしていましたが、

これからは「好きな女の子または男の子はいるの?」的な言い方をしようかなと思います。

それで女の子なら「は?女の子なわけないじゃん!」などと言われたら

「そんなことないよ!好きになるのは男の子でも女の子でもどっちでもいいじゃん!」みたいに言おうかなと思っています。

セクシャルマイノリティとはちょっと違いますが、保護者の話をする時も、「お父さんお母さん」という言い方はしません。

施設の子がいる学校にいたこともあるので本当は「保護者」という言い方が正解かもしれませんが、子どもには分かりにくいので「おうちの人」という言い方にしています。

家族の形も性もそれぞれという前提で話せるようにならなきゃ。学校で、小さい頃から、いろんな事情や趣味嗜好の人がいるのが当たり前という考え方を身につけてほしいと切に願っています。

私のこのブログやこの本や他のセクシャルマイノリティの本や記事などで、周りにカミングアウトできない人がいるかもしれない(いや。絶対います!)という想像力を持って、ちょっとした会話、例えば奥さんや旦那さんという言い方ではなくパートナーという言い方をしたりなど、少しずついろんな人が同性異性を意識しない言い方を広めていけたらなぁと思います!

長くなってしまいました。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます照れ