結城(茨城県)はつむぎの里として知られる鄙びた城下町です。
古い見世蔵がたくさん現存していて古き良き日本的情緒が残る
街並を見ることが出来ます。町外れにある結城城は現在は公園
として整備され、遺構らしきものは残念ながら残っていません。
■結城紬の問屋奥順 手機織りの本格結城紬は一着数百万円にもなる。
■木町信号交差点 城下町特有の枡形(クランク)道路が見られる。
その結城城で幕末の戊辰戦争のとき前代未聞の事態が起きました。
当時、江戸の藩邸に滞在中であった藩主水野勝知(かつとも)は強固
な佐幕派でした。結城藩は徳川家康の二男秀康が結城家の養子となり
家督を相続、秀康はその後越前へ転封となり結城城は一旦廃城となり
ますが、元禄13年(1700)能登から水野勝長が移封されてきて再興
された歴史があります。そのような歴史的背景が藩主勝知の徳川家への
思い入れを強くさせた理由かもしれません。
一方、藩主の留守中に国家老小場兵馬他の重役たちは天下の形勢は
新政府側に有利と見て恭順することを伝えると同時に藩主の説得に
乗り出しますが勝知は激怒、江戸で彰義隊や旧幕府兵とともに決起、
小山に陣を置いて結城城を攻撃、藩主が自分の城を攻撃して占領する
という仰天事件が起きたわけです。
■城址公園 小高い丘の上にある。藩主勝知は自分の城に入り新政府派を
一掃するが、事態を重く見た新政府軍は祖式金八郎指揮下の館林、須坂藩隊を
派遣して結城城奪回に乗り出す。しかし勝知はいち早く脱出し、江戸の二本松藩邸に
■幕末の藩主水野勝知の墓(考顕寺) 勝知は長命で大正8年まで生きた(82歳)。
■藩主勝知とは対照的に新政府派だった国家老小場兵馬は藩主を説得出来ず