「潤、麻酔か効くまで手を握っていてくれないか」
これから翔様の目の手術が始まるそんな時だった。
『どうしました?』
「素直に言えば、怖いんだ。
手術がうまくいってもいかなくても俺の運命が変わる。
教授は見えないからといって俺のピアノには何も問題がないが、オケには参加できないのが残念だ、と言った。
ソロリサイタルなら人事を尽くそうとも。
目が見えないままなら、ソロリサイタルが俺を待っている。
世界に通用するかしないかがわかってしまう。
では見えたら?
本当にオケに入れる実力があるのかどうか否が応でも突きつけられる。」
『翔様のピアノなら大丈夫ですよ。
ド素人のボクを一人前の調律師にしてくださいました。
翔様のピアノを聴き続けた結果ですよ』
「それだけじゃないんだ。
何年こうして暗闇で過ごしてきたと思う?目が見える世界が想像つかない。
それに、手術が失敗した時の落胆をもろに受けるのは辛い。
こんなに人の機微を考えたのは初めてだ。
自分がどうなるのかが怖い」
翔様の握った手は汗ばみ震えている。
僕はその手を精一杯優しく擦ることしかできない。
『翔様、ずっと僕はおそばにいますから、安心してお医者様にかかってください。
大丈夫です。大丈夫。
次に目を開ける時にはあなたの大切な人がお側にいますよ』
それは、麗子様。
あなたの奥方様です。
ボクではありません。
あなたのお子を宿す、その方です。
翔様の背中を擦りながら思う。
いっそ、裏切られたと思って憎んてくださればいい。
翔様を手術室に送り出したボクは、奥様にこんな提案をした。
今まで見聞きしてきた翔様のことを新聞社に言われたくなければボクの口をふさいでください、と。
誰かに聞かれたら、翔様は品性方向な方であると必ず言います、と。
『もしその条件を飲んでくださいますのなら、ボクはもう二度と翔様の前には姿を見せません』
「飼い犬に噛まれるというのはこういう事を言うのね」
『なんと思われても結構です。
翔様には麗子様という素晴らしい奥方様を迎え、やがて子を成し、櫻井家の長男としてお恥ずかしくない方になっていただきたい。
安い話ではないじゃないですか』