「手足を伸ばせ、どうせぶつからない。それより、その知事困った気持ちを解放してやれ」
われが浴槽の端の方で小さくなっていると、見えるはずがないのにそう言った、しょう様。
不思議な人。
あのお祖父ちゃんに対しての口調とわれへの言葉は全く違って……あわれんでる?われ、あわれまれてるのか。
しかたがないよね、しゃべれないし、物の事も何も知らないし、まだ言ってないけど(言葉に発することは出来ないけど)文字も知らないし。あわれまれても……
「憐れむんだったら眼の見えない俺も一緒だろ。お前は言葉、それだけだ。
お前、点字って知ってるか?」
肩を掴まれてその顔の近さに身体が固くなる。
スゴいキレイ。紅の口唇に大きな眼は落っこちちゃいそう。
「知ってたら頷け、知らなかったら首を横に振れ」
ぶんぶんと首を横に振ると、
「お前に覚えて欲しい。
解る通り俺は眼が見えない。点字に頼るしか文章を読めない。けれど、ああ言い忘れた俺はピアニストでね、書評が気になるんだよ。
でも、点字に起こしてくれと頼んだ大概の者は俺に気を遣って悪評を書こうとしない。それじゃダメなんだ。俺のピアノは縮こまったまま誰の心も動かせないただの金持ちの道楽なってしまう。
そんな終わりかたはしたくない。ここまで血のにじむ思いでやってきたんだ。
だから、お前には文字と点字とを覚えておれにすべてをおしえてほしい。
その代わり、衣、食、住は保証する。どうだ?」
どうだって言われても、われの返事なんか選びようがない。
われは、一生懸命首を縦に振った。
水面に浮かんだ花がふぁさりと香りを立てた。