今日は祝日 | だらだらしてみる。

今日は祝日

有って非ずは無きに非ず。
有って非ずんば無き。


なんだか矛盾したこれらのフレーズが不意に浮かんだのだけれど、一体何なのだろうか。『非ずんば無き』ってのはちょっとおかしくないか?つーか、『有る』の反対が『無い』と言っているだけなのか?じゃあ、その上の『有って非ずは無きに非ず』ってのはどういう事なんだろうか。うーん。わからないな。



話は全然変わりますけども、『意味論』ってやつはこの学校で受講できたかしら。言語学のではなく数理論理学と呼ばれるモノらしいですが。でもまぁ、数学やるにしても言語学ってものの必要性を感じずにはおれませんけどもね。大学ってのは面白いね。



何をやるにしても、ビジネスにしろコンピュータにしろ西洋文学にしろアートにしろその他諸々にしろ、『哲の道』は避けて通る事の出来ないものなのね。だから「博士」ってやつは「PhD:Doctor of Philosophy」と言うのでしょうね。なんて事は今更書くまでもないことなのだけれどな。それをそうであるという前提に置いて「学問」というものをしない人はいないもの。それでこの煮ても焼いても食えない「学問」というモノが一体何の役に立つのかと言えば、何の役にも立つのです。「立たない」って言うと思った?数式を見て数式を見ている人には難しい、絵を見て絵を見ている人には困難を極めるものなのだろうけれど。だから、自分の一番取っ掛かり易い分野を知らないうちに選んで、そこを全てのスタートとしているのじゃないか。


この哲の道ってやつは、何も「学校に行かねばならない」等と言う決まりはない。世界にはヒントが沢山転がっていて、無数のヒントを数個に絞り集め、パッキングして配っているのが学校だという"だけ"である。ブラブラと町を歩いている時にもそこらへんにこのヒントは散らばっているのだ。君達が酒盛りをしてドンチャン騒ぎをしているその瞬間にすら、それは溢れているのだ。多すぎて気が付きにくいだけなのだ。気が付きにくくて嫌になっちゃうから僕は学校を選択したまでの事なのかもしれぬ。昔あった「ココが変だよ日本人」という番組内で、「袋詰めのまま『なんだこんなもの』と言って中身を取り出してみないようじゃあ、勉強なんてする意味ないよ」とビートたけし氏が仰ったらしいが(記憶が曖昧なので伝聞推量で勘弁してもらいたい)、怠慢な学生に喝を入れる的確な一言であると思う。そういう僕自身も怠慢学生の一員に過ぎないのだけれどね。


せっかくヒントをまとめて売っている「学校」に行っているのだから、それを存分に搾り取ってやらないと損だと思うよ。高い学費払ってるんだしよ。



『哲の道』なんて大言壮語も甚だしいのだけれど、間違ってはいないかなとも思うので大口を叩かせていただきました。不味くても美味しく頂いて下さい。いや、やっぱり不味いモノは不味いと言ったほうがいいね。



もう一つ。全く関係のないようなこと。


確立論を受ける前に、何とかして「必然」についての記事をまとめたい。出だししか書けていない。しかも、何故だか頭が働いてくれない。授業が始まるのは来週である。無理かな。この授業を受ける前と後とで、偶然・必然、運命や因果といったものに対する考え方がどう変わるのかを観る為にも書いておくべきだと思ったのに。
『伊藤の公式』や『伊藤のレンマ』ってやつは出てくるのかなぁ。日本人の名前を教科書や講義内で見ると何だか嬉しくなるのは僕だけだろうか。


定理ってやつは絶対正しい、そこから広がるものへの前提になり得るものであるのだけれど、そいつの全貌を掴むのは中々にして難しい。と僕は思うのだけれど、数学狂いの方々は何を思ってらっしゃるのかしらね。「絶対正しい」ってのは誇張でもなんでもなく、とある前提、"ある範囲内で"はそれは不変不朽の真理である、という事なのですよ。僕がいつも困ってしまうのは、それにすらも謎を抱いてしまう事なんだ。ライン引きが上手く出来ないんだな。幼子のように、歯止めをかけることなく「アレは何?コレはどういう事なの?なぜソウなの?」となるのは大変疲れるし、無駄な事のように思えてくるのだけれど、僕のやり方ってのはこういうモノだと思うのでこのまま行くしかあるまい。天地がひっくり返っても"学者"にはなれない人間なんだと思うよ。良くも、悪くも。


終わり。