「おおきな木」は、翻訳者が違う種類の絵本があります。出版社も違います🌱
1976年に初版された「おおきな木」は、篠崎書林から出版されて、翻訳はほんだきんいちろうさんが手がけております。
もう一方の「おおきな木」はあすなろ書房から2010年に出版され、村上春樹さんが翻訳を手掛けています。

どちらも(訳者あとがき)として、巻末に「おおきな木」について、作者のシェル・シルヴァスタイン氏への思いなどを綴ってます。このあとがきも含めて、「おおきな木」を楽しんでもらえたら。

訳によって物語のニュアンスやメッセージ性が微妙に変わってくる。伝わり方も変わる。受け取り方も変わる。それは翻訳する人の思想や願いや原文へのリスペクトのフィルターがかかる。
どう感じるのか。は、読み手私たちに委ねられる。

あなたはどっちが好み?

変わらないのは、「大きな木」が与える《モノ》と《少年》だけ。

翻訳の違いをもう少し深ぼりしてみる。
ほんださんは「うれしかった」と表現するところを村上春樹さんは「しあわせ」と表現をかえている。

「おゆきなさい」と少年の旅立ちを見送る木。また戻ってくる少年に「ところが」という接続詞を使っている。(ほんださん訳)しかし、というようなニュアンスの文章を村上春樹さんは使ってない。少年が木の下にやってきました。と、表現している。

ほんださんの解釈では「おゆきなさい」と送り出した木は、少年の楽しい暮らしを祈っていて、戻ってくることはないだろう。みたいな雰囲気が伝わってくる。

だが、村上春樹さんの訳は「戻ってくることは必然のような」そぶりである。


今回じっくりと改めて読み比べてみると、昔読んでいたときとまた違った印象をうける。昔は、ほんださんのシンプルな訳が好きだったけど、今は村上春樹さんの訳の方がしっくり来る。なぜだろう?

それは、双方が平等に(しあわせになれていない)という事に気づいてしまったからかもしれない。村上春樹さんの物語の方が、そのニュアンスを強く受け取れるような気がする。(いや、これはちょっと前に読んだ凪良ゆうさんの「すみれ荘ファミリア」の影響か。?)


老人になって、何も望まないと言う少年に木はつぶやきます。「かわいそうに…」と。ためいきをつきます。これは、あそぶ元気もない少年の老いに対しての同情なのか。モノにしか価値を見出せなかった心の乏しさへなのか。木自身が自分に対しての落胆なのか。

与えることしかできないおおきな木は、「わるいんだけど…」と少年へ切り株へおすわりと勧める。(わるいんだけど、という訳は村上春樹さんらしい文章ですね。💕)


絵本やぎさんセラピーでかとっぺさんが「聞いてて木の対応にイライラした」って言っていて。「木は物を与えるだけで、この子は何も学んでいない。また木の下に戻ってきている。繰り返してる。何も学んでない。老人になる最後までそれを木は何も教えない」だから「腹立つ」と。

そう思ってこの木と少年のやりとりを読み返すと、『もしかして……』という新しい発見があった。この木は、「与えることが彼にとってほんとうのしあわせなのだ」と、信じ切っていたのだ。

本当の幸せとは、物を満たすことではなく、心の豊かさだと、読み手は気づく。だから、与えるしか能がないおおきな木に苛立つ。もっと本質的な幸せは、別だよ。と。(村上春樹さん風の文章にするなら、太線のところに、1文字ずつ、点をつけたいわ!笑)


そして、与えてもらうばっかりで、大好きだった木に少年はなにも恩返しも優しい言葉もない少年。

物語の中で、1箇所「…それはほんとかな」と、私たち読者を意識するようは一文が入っている。本当のしあわせや豊かさはなんなのかも、考えさせられる。